
はじめまして
渡辺 至(ワタナベ イタル)です。会津磐梯山のふもとの福島県北塩原村生まれ。
現住所 : 福島県喜多方市塩川町中屋沢字道久乙 1810−2
電話 : 0241-27-8284
携帯 : 090-6226-8293
HP:【白光治療院】で出ます。
http://kitakata-shinkyu.com
【はり師免許証】-東京都第15743号、【灸師免許証】-東京都第15598号。1983年。
自称、哲学者で東洋医師。哲学者は厳密には「愛知学者」です。philo-sopherの語源が「知恵を愛する人」であるからです。西 周(にし あまね)さんによって「哲学者」とされましたが、素直に「愛知学者」でありたいものです。
明治以降、「鍼灸師」にされましたが「東洋医師」が正しいはずです。この問題にはここでは深入りできませんが、東洋文化と西洋文化の厳しい対決を伴う現代に通じる深刻な課題があります。「東洋文化の無知な切り捨て」による歪(ひず)みが残されてあります。
32歳の時に東洋医学の鍼灸専門学校に入学しましたが、その前後に大学(2校)と大学院(2校)につき合い、その後に放送大学の4学科に編入、卒業。合計、9つの大学に学ぶ。医学だけでなく、キリスト教神学、宗教学、哲学、文学、心理学、教育学、自然科学(特に分子生物学)に体当たりしました。近年、量子力学を思い出して体当たりしています。近代科学の超克の為に。
私の営為(えいい)は、上に向かってではなくてむしろ下に向かっています。北大大学院で学んだ後に放送大学の4学科に入学・卒業がその好例です。通常、こうした愚直な努力はしませんね?
地下深くにどんどんもぐり、時に地平に顔を出して天空に向かって叫びます。○○○○○!と。そして再び地下にもぐるの反復です。
美しい富士の峰々を描く画家はたくさんいたが、富士の地下を描こうとする画家はいなかった。樹木の葉や花の見事な絵や写真はたくさん見かけるが、その根を捉えたものは見かけない。ここに私の視座と精神があります。
ドイツの詩人、ヨハン・ペーター・ヘーベルが語りました━━「私どもは草木である。天空に健やかな花を咲かすためには、大地に深く根を下ろさねばならない草木である」。
磐梯山麓にて家内と二人三脚で踏ん張っています。42年間、7万人の難病・奇病の患者さんと向き合う。そして遂に、一切の検査機器と薬・ワクチン不要による万病の「10回内施術による治癒」が実現されました(末期を除く)。(詳細は→当ブログの『新しい医道の樹立に向かって』)。
時にムキになって口論になる事があります。現代医療ではダメな不特定多数の病人を健康に導かんとする際、価値観の変革・転向が伴い、闘いが起こる事があります。これは当然な事ではあります。但し、医療事故や医療訴訟は1件もありません。
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新たな文明の開けを探究しつつ新たな病理観と医学の樹立に賭けています。 同時に、新たな病理観と医学の樹立を探究しながら新たな文明の開けを目指しています。
私共の営みが、独断と偏見に陥ることなく、しかもクリアーに成るように、E.フッサールの 「現象学」 を武器にして、”自己の絶えざる突破”と ”新たな地平の開け” にいそしんでいます。 特に、「存在論」 と 「認識論」 そして 「時間論」を展開しながら。

”医の道”に入って41年、医学と医療の哲学的思想的探求と 「新しい病理觀」 の樹立に、命を張った。
医は、人の苦痛と生死に、直接に関わるものである。 医が、苦痛を除き、生死をさまよっている人を生かす事を目的とする、正にそのゆえか? あるいは、こんにちの時代精神の貧しさゆえか? 多くの医が、病気の現象面の表面だけにとらわれがちで、決定的な何かが欠落しているのでは?
「病気とは何か?」、「病気は、痛みやかゆみはなぜ起こるのか?」、「病気になるとは、あるいは、病気が治るとは、どういう事なのか?」、 「医学と医療をもっと単純明快に出来ないものか?」、「多額のお金をかけずに、安全な根本治療は出来ないものか?」 こうした、最も素朴で根源的な問いかけに、深く思いを潜めて「新しい地平を開かん」とする探求心を失ってはいないか?
病気についての語りは、この世に、あふれている。それはそれで、意義深いものがある。 しかし、物足りない。おおかた、浅くて狭い病理観から、抜け出せないでいるためである。 たいそうな病名をつけて言葉巧みに深く探求しているように見えるものも、もの足らなさが残る。 次元(地平)が同じであるからです。
外科的医療は、発達しているようです。 特に事故による傷害の疾患には外科的処置が重要です。 しかし、大がかりな外科的処置が必要とされるのは、通常は、一生の中で1回あるかないかでしょう。 こんにち、多くは外科的処置を必要としない病気で苦しみ、とりわけ、慢性疾患は、殆どお手上げの状況にあります。
現実に、私達の最も身近な苦痛であるところの高血圧症、頭痛、肩こり、五十肩、坐骨神経痛、関節炎、腰痛、手足のしびれや冷え、耳鳴り、飛蚊症(ひぶんしょう)、花粉症、皮膚炎、いびき等が、現代西洋先端医療を受けても治らずに苦しんでいる人が、ちまたにあふれています。
ここで、大きな問題が立ち上がってきます。それは、外科的治療は主に構造的・解剖学的改善を目指すもので、深い哲学的・宗教的探究を必要としないが、内科的・精神的治療には深い哲学的・宗教的探究が求められてあるという問題です。
近代科学を基盤にする近代医は、懸命に哲学や宗教から離れて独立せんとした経緯があるが、正にこのことに近・現代医の致命的欠陥がありそうです。
私は確信を得た。真の医療には、「医の哲学的・宗教的探求」が強く求められてあるのだ、と。
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医学と哲学の二つの探求は、”茨の道”であった。挫折しながらの探求の旅をつづけて、早、60数年。 ようやく確信を持って、世界に向かって問いかけ語ることが出来るようになった。
とにもかくにも、この50年、病院にかかったのは一度だけ。 歯だけは歯医者にお世話になったが、内科薬をのんだこともなく、成人病検診もろくに受けていない。 全くその必要がなかった。 ”還暦” とやらも遠く過ぎ、間もなく77歳になるが、健康そのもの。
仕事と学究に励み、百姓の真似事をし、気が向くと執筆にあたっている。
これまで、車の運転も、55年間、無事故で来れた。警察のやっかいになり、くさいメシを食う事もなく生きて来れました。
中には、何の報酬も求めずに、骨肉をふりしぼって私に智恵を与えてくださった稀有(けう)なる御仁(ごじん)もおられた。 元教師で「美しい世界」に強い憧れを持ち、作詞作曲をされ、10人もの里子を世話したロマンチストであった。
16歳から、自分が人生が何も見えなくなり、全てが 「?」 であった私に対し、夜の12時頃まで真剣にお付き合い頂いた。
先生がよく言っておられた━━「教育とは、血と肉を与える事だ」。「神様は、見込みのある者に多くの試練を与える」。 「真理はこわいものだ」と。
日本のナイチンゲールと讃えられている瓜生岩子女史(1829~1897。会津出身)を尊敬され、「岩子さんの銅像の前に立つと、いつも頭が下がる」と熱っぽく語っておられた。
「先覚者は、孤独なものだ」と、芭蕉の句を詠(よ)まれたこともあった。「この道や ゆく人なしに秋の暮れ」。
圧巻は、『我と汝(われとなんじ)』(M.ブーバー)と『宗教とは何か』(西谷啓治、創文社)との出会いであった。 私が持ち込んだこの2冊の本に先生は惚れ込み、これらの本を通しての語らいが延々と続いた。
5月のある朝、突然、私の15歳からの15年間の人生の苦悶が吹っ飛んだ。 喜び勇んで先生のもとへ駆けつけ、「私の開け」を語り、間違っていないかどうかの確認を求めた。先生は、「ウーンそれでよいと思う」と満面の笑みをもって深く肯(うなず)かれた。30歳の春の事でした。
その秋に、先生は他界された。15年お世話になった。先生の私への最期のことば、それが・・・「世界をリードする大思想家になってほしい」であった!! 穴があれば入りたかった。46年前の出来事です。 青春時代の忘れがたい師であり、哲人であった。
今もたまに夢をみる。先生のご自宅で、先生の末期の肺癌の身体を私が治療している夢である。
「先生はとうの昔に亡くなられたはず。変だなあ?」と思いながらも治療している夢である。当時の私は、東洋医学の専門学校に入る前で、先生のつらい胸の痛みに対して、指圧となでるぐらいしか出来なかった残念のゆえと思われる・・「今だったら良くなる治療が出来るのに」と思いながらも治療している、ちぐはぐな夢である。
医の道に入るきっかけになった重要な人物に、横須賀にお住まいのW氏がおられる。ブーバーのファンであり、おもしろい鍼灸師である。カトリックの敬虔な信徒だが、一般に見られる「私はクリスチャンよ」といった感じが全くなく、精神世界の探究の旅にその生涯を捧げ、さりげなくユーモラスに生き、仕事に当っている姿に”妙”がある。
日本のクリスチャンには珍しく、伝統を無視する左翼系でなく、日本の古代史に深い愛着をお持ちであるところにも妙がある。
思うに、中学、高校、大学、大学院のそれぞれにおいて、格別に可愛がってくださった先生がおられたことに、今さらながら頭が下がる。ほかにも、多くの方々にお世話になって今の自分がいる。
修行時代も、開業後にもたくさんの方々の顔が思い出される。中には、当院の16畳の治療室を汗まみれになって掃除された御仁がいた。当院へ通じるでこぼこ道を、手でもって石を敷き詰めて平らにされた親子もいた。充分なお礼ができただろうか・・自分の至らなさとふがいなさに哀しみを覚える。
会津の辺ぴな、狸や熊が出る磐梯の山麓に、それぞれの苦悩をかかえてやって来られる、人がいる。 この世の業(ごう:カルパ;どうにもならない苦悩)を背負い、助けを求めて来られる、人がいる。
私が手がけること
によって、新たな業が生まれると知りつつも、その業に分け入り、はまっていく。 業には、おそろしさと共に、離れがたい魅力と美がある。
私を「山の先生」と呼び、心から信頼し、助けを求めて来られる人がいる。だから、時々願う「放浪の旅」が出来ないでいる。
日本に於ける殆ど全ての病気をたった一人で手がけ、ほとんどの方が、治療後には、すっきりさっぱり、別人のように成る。 高血圧も1回ごとに下がり、老人性難聴、耳鳴り、つわり、さかご、どもり、しやっくりも1回治療で改善する事がある。百数十もの病気が10回内勝負である。 殆どの病気が、数回の治療によって完治か改善に向かっている。
むずかしい病気も、数回の治療によって改善すればしめたもの、間もなく完治する。 はじめの数回の治療によって改善しないものは、残念ながら、ダメだ。諦めて戴く。ダメな病気はしかし、そんなに多くはない。 なぜ、こんなことが出来るのか?
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ゲーテおじちゃん(1749-1832)が珠玉(しゅぎょく)のことばを放った
────“瞬間よ、止まれ! 御身(おんみ)は、あまりに美しすぎる!“(ファウスト)。
瞬間はしかし、止まることはない。止まらないから瞬間がある。 もし、瞬間が止まったならば、万物が死滅する。あなたも私も、瞬間が止まったその瞬間に、息の根が止まり死滅する。
「ファウストよ、お前がもう一度、”瞬間よ止まれ”と言ったその時、お前は死ぬ」と魔女に言われた通り、ファウストは最後にこのことばを吐いて死んだのである。いや、生きている事が時間でもある。生が止まったその時、その人の時間が止まる。有限である。しかしながら、大自然の生命の大きな流れには永遠性がある。私達の有限な存在は、永遠の大河の流れの一滴である。
従って、永遠は遙か彼方(かなた)のものではない。永遠は瞬間に切り込まれて在り、瞬間は永遠につながる窓である。 永遠が瞬間であり、瞬間が永遠である。
今のあなたが、私達が、「永遠であって瞬間であり、瞬間であって永遠」である。私達の腸内には60兆個もの生きている細菌が住んでいると言われているが、その細菌の起源と歴史は30億年?にもなりましょう!
瞬間で永遠なる存在である「あなたと私」が、医療の「今のこの場」で出会う。すさまじいエネルギーがぶつかり会う。 暗黒の世界に迷い込んで、何も見えなくなる時がある。沈黙に襲われる・・・
しかし、おおかた、数分後には、”かすかな光”が見えて来る。 一点のかすかな光が見えてくればしめたもの。かすかな光が確かな光になる術(すべ)は、たくさん与えられてある。
「あなたと私」の真剣な出会いの只中に、大自然の神秘が顕(あら)わになる。「永遠の今」に見えて来る。
こうした、「永遠の今の瞬間」に賭ける医療によって、新たな地平が開かれて来る。100を超える病気に対して、検査器具は血圧計だけで、一切の薬を使わずに自信を持って手がける事が出来ている。
ゲーテさんがまた、珠玉のことばを放った━━”永(なが)き夜を、ベットで泣き明かした者でなければ、「大いなるもの」を知り得ない” (『ウェルヘルムマイスターの遍歴時代』)。
「大いなるもの」は、瞬間に現れ、永遠に通じているが、ベットで泣き明かした人が皆、大いなるものをしることが出来るわけではない。 ここでの”しる”は、単なる”知る”ではない。認識に近い”識(し)る”である。 全身全霊をかけた存在論的認識である。
単に「貧しくて、人に侮辱されて、あるいは人に負けて悔しくて泣きはらす」では絶対に識(し)る事は出来ない。
なぜなら、そうした次元の悔し涙は、真に生きている事に、真の存在のありように、無関係であるからである。しかし、「貧しくて、人に侮辱されて、あるいは人に負けて泣きはらす」といった事が、生きている事の存在の深い次元に到達すれば、その人は、”大いなるもの”を識る事が出来る。
大いなるものは、遙かかなたの特別なものではなく、本当は、我々の身の回りに満ちている。我々が、気付かないでいるだけである。
「今ここに」、生きて存在して有る事の凄さに気づいて驚くその瞬間が永遠に通じる。
心臓が昼夜、休まずに黙って動いている。自分がつくった事もない手足が動いている。同じ一つの口によって沢山の飲食ができて、同時におしゃべりも呼吸も出来ている。こうした事に驚き識る時、この世が、全く新しく見えて自己に迫って来る。
「貧しくて、侮辱されて、或いは負けて悔しくて泣きはらす」といった事が出来ている事自体にも自己の存在の凄さがある。
日々の日常生活のささいな出来事、出会い、一滴の水、一本の大根も大いなるものとして私達に迫っています。 こうした驚きの出会いと営みのない生活は、そして、政治、経済、教育、農業、医療等もダメに成る。本質的、根源的に堕落し脱線する。現代の危機の根本相です。
こうした根本相をソクラテスおじちゃんも、仏陀おじちゃんも孔子おじちゃんも説かなかった。シエイクスピアおじちゃんもマルクスおじちゃんも説かなかった。現代の学者も忘れています。
病気にかかり苦しむ事にも凄さと驚きがある。異常のサインを知らされてある恩恵がある。もしも、病気の異常を告げるサインが全くなければ、病気はトコトン悪化して私達は短命になるでありましょう。
ここでの最も本質的な大事は、「私達は病人に成る事が出来るのだから、健康者に成る事が出来る事」です。ここにも「大いなるものと 事(こと)」があります。
〜 ~ ~ (長いぼやきが続いていますが、軽く流して下さい)。
人は私に言う・・「先生は、仙人だ。神様だ。水戸黄門様だ。 いや、宇宙人だ」 と。 また、ある人は言う・・「先生の仕事は、ノーベル賞ものだ」と。
「仙人だ、神様だ、黄門様だ、宇宙人だ」と言われても、この先生には、しかし、ちっとも”貫禄”がない。 恥じらいと複雑さが入り混じって困惑している。 ノーベル賞ものだ、と言われても、誰もくれない。 いったい、どうしたものでしょう?
特に、”神様” は、深刻です。 この世で、神様ほど頼りにされ、もてはやされ、そして、ないがしろにされたものは、ほかにないでしょう!
F.ニェーチェの140年前の 「神は死んでいる。我々が殺したのだ!」 の叫びが重い。
神を失った我々は、いったい、何に向かって、どこへ行こうとしているのか?
政治、経済、教育、医療、農業、そして我々の生活は、絶対的超越性なしに築けるものなのか?通常、この事をまったく問題にしていない日本の政治は、経済は、教育は、医療、農業は、我々の人生は、どこへ行くのか?
戦後、神なしに豊かさを築いた我々は、実は、いっそう貧しくなったのではないか? 我々の欲望には果てがなく、ついには地球を生産工場にしてしまい、自然との優しい触れ合いを失い、地球を傷(いた)めつけたのではないか?
神を抹殺し、あるいは忘れ、無限の自由を勝ちとった我々は、その自由の重みにあえいではいないか? 行き場を失いオロオロし、自己矛盾と自己否定に陥っているのではあるまいか?
神と共に生き、神と共に死ぬ事が出来れば、これ以上の幸せはないと思う。 我々の多くがしかし、神信仰を持てなくなっている。 仏の信仰とて同じでしょう。
神仏信仰は持てない。が、空しい。 拠り所が欲しい。 神仏信仰に代わるものはないものか? これがなかなか見つからない。 ”いやし”や ”カルチャー” が大はやりだが、どれもこれもうすっぺらで真の拠り所にはなりそうにない。
オンラインに見かける占いは、その多くが、「優しさと幸福」を売り物にして、人の欲望の実現や安全を目指すもので、たいした教えもなく終わり。つまらん呪文を「言霊(ことだま)」と称し、返信を要求して銭儲け…真の人間の深い有り様(ありよう)を示すものは希(まれ)です。 結局は宙ぶらりんのままに、宙ぶらりんに毎日を過ごしている。 やがて、哀れな死がおとずれる・・ 自分の一生は何だったのか?
近年、とんでもない事件が続いています。当院にも、治りたいんだか治りたくないんだか、生きているんだかいないんだか、訳が分からないヒトが増えています。 苦痛を訴えるだけ訴えて、次の予約をすっぽかす。50,60過ぎのヒトも・・・・不景気だ、地域崩壊だ、うつ病だ、自殺者が毎日100人出ている(H,15)とさわがれているが、”人”や ”人間”が崩壊しているのでは? 異常気象もさわがれているが、異常人間が増えているのでは?
若いアンチャンはしょうがないとしても、50、60にもなって下らん事件を起こしてつかまっている報道がしょっちゅうです。 もうちょっと、まともな事件を起こせないものか? 正義を貫く事件とはいかなくとも、せめて、心がなごむ事件を起こせないものか? ある教授の話によると、近年、少年非行よりも老人非行が増えているという。 若い人を導き育てていくのが、知恵袋としての老人の役割であり、使命ではなかったのか?
裁判になると、皆こぞって、罪の裁きの軽減を求める。 裁判の判決よりも重い刑罰を求めるへそ曲がりはいないものか? 真の面目に達し、敢然(かんぜん)と人の間に生き抜かんとする ”人間”はいないものでしょうか?
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「神なくして、私達は健やかに生きていけるのか? 社会は、どうなるのか?」これは、カントとドストエフスキーの大きなテーマであった。 こんにちの我々にも、鋭く突きつけられてある深刻なテーマでしょう。
何とも空しい空虚感が日本全土をおおっている。 真綿で首がしめつけられるような圧迫感がある・・・真に健(すこ)やかな心身の有り様についての探求は、果てしなく続く。
やがて時が満ちたなら、アフリカに行って、HIVと結核の治療にあたるつもりです。双方とも一切の薬を使わずに、何の検査器具もなしに、おおよそ3ヶ月で完治するものと確信しています。安価で早く安全にそして根本的に。
ただし、今は動けません。 現在の当地での責任があります。 後継者がちゃんと後継ぎが出来るようになってからです。 でないと、どこへ行っても、後ろ髪が引かれて、いい仕事が出来ません。
私共が40数年前から提唱してきた、「根源的関係の病理観と空(くう)の医療」 が、ホンモノである事を実証するためには、外国行きもあり、です。 また、来たるべき 「新しい間の文明」 の古くて新しい軸(じく)を打ち立てるためには何らかの工夫が求められてあるようです。
会津の磐梯山麓での40年余ののろまで愚直な営為(えいい)は、感謝です。この営為によって心身の健康と学びと健やかな精神が与えられました。そして、『新しい医道の樹立に向かって』が生まれました。これで、「我が人生は完成・完了」としてよさそうです。
しかしながら、もう一つの仕事が残されてあります。それは、世界に向かってのappealです。会津の磐梯山麓では困難な仕事です。
ある人は、”たわごとやドンキホーテ” とお思いでしょう。私にとってはしかし、当然の事なのです。 なぜならば、私共の医療は、天の摂理に最もかなっているからです。 私達がとかく見失いがちな、”最も単純な驚くべき秘跡(ひせき;秘め事)”を示したいのです。
ただし、遊びながらです。天空に遊びながらです。 それは、私共が人間で有る事に気付く事、そして人間に成る事によって可能と成ります。ごく自然に可能なのです。 →「適応症」
I. カント (独、1724~1804)
F . ニーチェ ( 独. 1844~1900 )
E . フッサール(独・1859~1938)の現象学とは?
・・・・既成のあらゆる判断、結論を保留にする。 排除するのではなく、保留にして、吟味していく。 あらゆる判断と結論を、いわば( )でくくり、この( )の中身をとことん吟味検討していく学である。
しかし、ある固定した体系化された学ではなく、むしろ、私共に課せられた愚鈍(ぐどん)で厳しい訓練、行(ぎょう)として精進することが、妥当であり、フッサールの真意にかなっているかもしれない。 眼識が研ぎ澄まされ、真理の探究に、有力な武器になる。 フッサールの現象学は、M.ハイデガーを始め今も多くの哲人に深い影響を与えている。
M.ブーバーの 『我と汝(われとなんじ)』 にも多大の影響が見られる。 『我と汝』における、人のありようを 「我と汝」と 「我とそれ」 の二つの関係に分けてとらえ、思索を深めたその眼識と営為(えいい)は見事である。
長いヨーロッパの歴史と文化において、ずっと見過ごされてきた 「相互依存の関係」 を強烈に明快に打ち出した不朽(ふきゅう)の名著である。 仏教に通じているところがある。 仏教に欠けがちな力強さと切れもある。2024.12.31