[お蔭様で34周年]-5万人の方と向き合い「万病克服と医療革命の道」が見えてきました。その機会を与えて下さった皆様お一人お一人に、そして人類の歴史と諸先覚者、大自然と天に深く感謝申し上げます–これから、おもしろい事を始めます。決め手は、遊び、「天空の遊び」です。2017.9.10

古典的療法と現代的療法の双方にスタンスを置く。学究も同じ。両方に軸足を置くのが理想と思っています。

【1】一切の薬を使いません。

 薬は有難いものです。人類は何万年もの間、身の回りの薬草等によって命をつないできました。但し、次の3点に注意したい。先ず、薬という漢字の意味。草冠(かんむり)に楽です。つまり、身の回りの草木によって楽(らく)にするのです。これが「薬」の目的で、かつ、限界です。これは、単なる語呂合せと思いがちですが、今の日本の現実がそうなっていましよう。薬物療法では、高血圧、糖尿病、痛風等の慢性疾患は、生涯にわたって薬をのみ続けねばならない状況にあります。

  第2の問題点は、薬の製造方法とルート、そして質も大きく変わった事。昔は、身の回りの薬草等の自然物を自分達の知恵を持ち寄って使っていました。むろん、薬の専門家である医師の薬に頼る事もあったにせよ、この薬も手作りでした。今日の製薬会社が作った薬ではありません。昔の自然薬に対して、今日の薬は製薬会社が作った化学薬品である事に注意したい。

この事は今日の医療に大きく影響。医師の仕事が直接関係から間接関係に変わりました。国(薬事審議会)が認めた薬の健康保険適用と相まって。国が認めた薬の使用と薬害の責任は、主に、その薬を作った製薬会社とそれを認めた国が負う事となりました。ここで、医師の自主、独立の精神と独創性が問われてあります。薬物療法が主流をなしている現代日本においては尚の事。

 しかし、多くの医師の哲学が貧しく、視角偏重の偏狭な科学の同じ次元で同じレールを走り続けているのは大問題。哲学的訓練が益々弱まっている日本人全般の傾向と、偏差値の高さによって選ばれた医師たちによる「病名暗記と対処療法の医学」。健康保険制度による、病気が治らなくても保健組合に請求すれば病院にゼニが入る仕組。「人間の全体」を忘れがちな現代医療。このままでは、病気は治らず、医療費はかさむ一方。医療の自主独立の精神と独創性が一層貧しくなります。

[2] 当院では健康保険はききません。

 だから、よく効くのです。、、「健康保険を利用してボロもうけしてる医者と病院と製薬会社。中医協(30人)というブラックボックスが薬価を世界一高く設定し、診療報酬までも決めて、医療業界の利益を第一にしてる。プラジーボという肺癌薬は、一人年間3600万円だった。「このままでは国が破綻してしまう」という医師達のアッピールによって半額になったが、それでもイギリスの2倍以上の異常事態。(健康保険適用薬にされてあるために、個人負担は軽いが、これが怖い。健康保険税が上がる。C型肝炎薬ソホスブビルの価格もこれに近い)。国民や患者の事なんか考えていない。こんな国は日本だけ。日本のGDPは下がり続け、給料が下がっているのに、公的保険で強制的にカネを吸い上げて医療業界だけが「お手盛りで医療費をふくらまし、ボロもうけしていいのか」。

国民は怒るべき。このままでは日本の医療制度は破綻する。いや、破綻している。こうした事実があまり知られていないのは、マスコミに問題あり。製薬会社等がマスコミの強力なスポンサーであるためである。」(「週間現代」講談社、H.28年12月3日号)。、、この雑誌は、一年以上に亘って日本の医療について様々な問題をズバズバ指摘してる。興味深いのは、その厳しいコメントが現役医師や医学者である事。日本の医療とその制度には問題が多い。他にも医師の反省と危機意識が本になって沢山出ている事に注目したい。

[3] 健康保険は本当に必要か?

 日本の国民総皆保健制度が始まったのが昭和37年なので、わずか50年余りの歴史しかないのです。多くの日本人が誤解してます。日本民族2000年の歴史は、健康保険でつながってきたんじゃないのです。いつしか国や医療機関に洗脳?されて、健康保険なしでは不安で生きていけないようになってしまったのです。私共の治療院では、患者さんお一人お一人の全ての病気を手がけ、むろん毎回、確実によくなる治療をして、毎回¥4000。あらゆる病気が数回勝負。

 健康保険制度の「皆がお金を出し合って軽い個人負担で医療機関にかかる事が出来るように」、そして「医療関係者を保護しよう」という二つの目的と精神は私共、賛成です。この二つ目は知られていないのですが、かつての良心的な医師は、貧しい人々からはお金をとらず、いもやカボチャやどじょうで治療に当たっていたので貧しい医師がかなりいました。それで、「医療者の保護を」となったのです。

が、今日の実情は、当初の大事な精神が踏みにじられ、「たかりの温床」になっている面が強く出ています。毎月の健康保険料は大変なもの。会社員は天引きで半額負担なので、金銭感覚がマヒしがちで怖い。毎月2万円だとすると年間24万円で10年で240万円。半額なので実際は480万円。会社負担も大変で会社の重荷になっています。40年勤務だと、約二千万円。これが、他の国家事業に回せたら、、、月二万円の会社員の場合、一年間の健康保険料は、約50万円。高すぎます。私のような医療を徹底すれば、医療費が 現在の1/10~1/100で済みます。治りが良いので「対費用効果」は? 

 ここで、国による「健康保険制度廃止」を提唱したい。代わりに民間の保険会社か、各個人の病院や治療院による自由な「健康保険制度」を提唱したい。選択も、各人の自由に。さすれば、医療関係者も国民ももっと健康と医療に真剣になり、本当の医療に向かっての貴い努力と独創性が生まれましょう。国が健康保険を管理しているものだから、真剣さが無くなり、医療が画一的になり、進歩しないのです。

TVなどでは進歩しているというが、実は、外科的治療が出来る形ある病気の進歩で、形の無い病気は殆ど進歩していない。肩凝り、五十肩がいつ治るか解らない現代病院医療が良い例。肩凝りが治らずに頭や目や耳の病気が治る事は出来ません。白内障の手術が良い例。目だけをいじくっても再発し易いです。目が目だけで出来ていません。肩凝りがあれば、頭に血液が流れず、頭や目や耳が悪くなるのは当然。脳腫瘍や脳卒中や痴呆症、白内障や緑内障や難聴になるのも当然です。従って、目だけいじくるのは間違いです。ips細胞再生医療の決定的間違いでもあります→「体験談」No1 (1)コメント。

 現象として現れた部分の結果だけの処置で根本治療になっていない。この事は昔から言われてきたが、根本治療には哲学が必要で、確かな哲学による医療が求められてあります。これが私共の仕事で、皆さん、しんどいかも知れませんが、共に「ホンモノ」の医療に向かって努力しましょう。当院が目指しているのは、心身全体の「全人的救い」です。これを目指さないと病人は減らないし、本当の人間成長や豊かさは望めません。病気は異常を知らせてくれる恵みで、有り難いもの。病気は、私達の人間に気付き、人間成長と豊かさに気付く絶好のチャンス。私共、精一杯、応援します。

[4] 私共の病理観と医療は病名が不要。

  医療は、命と向き合い命を強める事。名前は仮の便宜上のもの。貴方の名前は貴方の命ではなく、貴方の人間そのものでもないように、貴方の病気の病名も貴方の病気そのものではありません。名前は命ではなく、人間でもないように、病名は病気でないのです。しかも、私達の存在は一瞬一瞬変化するもの。命も人間も病気も常に変化してます。よって、固定した名前では捉えきれないのです。日本の今の病名は、あくまで西洋病理学によってつけらた仮の名前にすぎないのです。

今日、日本だけでなく世界中の医師と医学研究者が、先ず第一に、あらゆる医療機器と頭脳を総動員して病名の特定にやっきになっていますが、誤解であり、間違いです。ある病気について語り、論文を作り、発表し、保健請求したりするには病名が必要かもしれない。これはしかし、第二の仕事にすべき事。第一の仕事(仕えるべき事)は、あくまで命との純粋な全身全霊をかけた真剣な出会いであり、苦痛からの解放です。これを誤ると大間違いを起こす。実際に起こしています。

 但し、名前(名詞)を含むことばは「道の案内人」としては大変重要。このブログも、ことば無くしてはあり得ません。「本質とことばの問題」は深い→「理念、根源的関係の病理観と空の医療」No2 (9月中に完成予定)

[5] 根源智と医療

 旧約聖書「創世記」の、禁断の実を食べて「知る者」となったアダムとイブの物語が興味深い。「知る者」になった人は、苦しみも知る者になりました。知には、二種類ある。神に背き神から離れた知と、神と共にあり神と共に働こうとする知です。禅に「分別知」と「無分別知」があり、両者合わさった「無分別智」がある。釈迦牟尼仏陀に「色の知」と「空の知」がある。色とは万物で、空は無数の縁起。「色即是空、空即是色」の「智恵」です。また、「有の知」と「無の知」がある。有とは形あるもので、無とは形ないもの。「有即無、無即有」の智恵です。M.ブーバーの理論でいうと、「「我とそれ」の我の知」と「「我と汝」の我の知」があり、二つが合体した「「我と汝」の我の智恵」がある。

 「我と汝」とは、「我」が相手の人や事物(事や物)を「汝」として敬う相互的な全身全霊をかけた出会いと関係。「我とそれ」とは、同じ「我」が同じ人や事物を「それ化」して、利用や研究の対象にする一方的関係。科学はこの関係。同じ「我(私)」の相手に対する二つの在り方によって、即ち「相手を汝とする我」と「相手をそれとする我」の関係の在り方によって、世界と言葉が二つになる。電話の応対にも言えましょう。相手の態度や姿勢によって相手が、「我と汝の我」なのか「我とそれの我」なのかが分かりますね。「若いな」という言葉にも二つの意味がある。その人の在り方によって、尊敬と軽蔑の二つに分かれる。

 両者が大事だが、現代は「我とそれ」の関係の世界がとてつもなく肥大し「我と汝」の世界を圧迫して私達を苦しめている。これは、他でもない自分達、我々の責任です。古代ギリシャ時代から人や事物を単独に捉える傾向が強かったヨーロッパ伝統の中で、ブーバーは関係の中で人や事物を捉えた哲人。仏教に共通するものがある。ブーバーはユダヤ教とヨーロッパ哲学を踏まえつつ、第一次世界大戦後の「ヨーロッパ没落」と「ナチス台頭」の時代、1923年に「我と汝」を発表。世界の様々な分野に多大な影響を与えた名著。私共の病理観の基盤にもなっている。邦訳に「孤独と愛」(創文社)、「我と汝」(岩波文庫)がある。原典がヘブライ語である旧約聖書の彼のドイツ語訳もP.ティリッヒ (1886-1965 キリスト教神学者アメリカの精神的指導者) が高く評価。

いずれもが「本体、本質」と「現象」の二つが一つである事を示す「人類最高の英知」です。この「本体、本質」の次元に仕える事が第一義の上記の第一の仕事で、「現象」の次元に仕える事が第二義の上記の第二の仕事です。第二の次元の仕事は、第一の次元の仕事なくしてはあり得ないのですが、この第一の次元を忘れがちで、忘れたままに第二の次元の仕事だけに懸命に励みがちなのは「人の業(ごう)」。第二の現象次元の仕事はしぶといです。

 それもそのはず、私達人は、第一の本質次元を忘れて知らなくとも、第二の現象次元での営みだけで生きていけるのです。神と共にでなくても、神から離れても生きていけます。無分別智を知らずとも分別知だけで生きていけます。「色即是空、空即是色」の智恵を知らずとも「色の知」だけでも生きていけます。「有即無、無即有」の智恵を知らずとも「有の知」だけでも生きていけます。「「我と汝」の我の智恵」を知らずとも「「我とそれ」の我の知」だけでも生きていけます❗❗実際、こんな面倒な事を知らずとも、おまんまを食べて、勉強をして、いい学校を出て、適当に働いて楽しみ、いい暮らしが出来ると思っている人がほぼ全員でしょうから、、、

また、第一の次元での懸命な仕事も、結果としては、第二の次元の現象としてこの世に現れ出るのです。第一の本質次元と第二の現象次元は、本来、別なものではなく一体なので。ここに「悟り(気づき)」の困難さがあります。伝承の困難さがあります。人類、最大最高の悲劇と喜劇があります、、、、正に「天は、善人にも悪人にも分けへだてなく恵みの雨を降らせたもう」のであります。

 またまた面倒くさくなりましたね。But. But 、ここで、皆さんの自由と決断が問われてあります。これまでの現象面の第二の次元だけで生き続けるのか、それとも私達と万物の本体と本質である第一の次元に気づき帰りながら同時に第二の次元に新たに生きようとするのかが。第一の次元の本体、本質の世界は私達の「ふるさと(古里、故郷)」です。手足が動き、ご飯を食べ、考える事もしゃべる事が出来る。米や野菜を作る。ビルを作る。教育し教育され、医療を施し施され、事業や政治活動をする。華麗なフィギュアスケートの舞い、激しいボクシングの打ち合いやプロレスの格闘技、、といった全ての活動とその現象は、本来、「ふるさと」なしにはあり得ません。

自分の好きな夢や希望を持って、前に向って自己実現に努力していく、、といった営みも、本当は「ふるさと」なしにはあり得ません。ところが、この事を知らずとも「自己実現」に努力出来るし、多くの人がそうしています。ここです❗❗「存在のふるさと」をきちんと自覚して「ふるさとに根ざした営み」をするのと、そうでない営みとは決定的に違います。

病気が発症し、良くなったり悪くなったりする現象も同じです。私達人類の知能を超えた宇宙的生成と変化のダイナミックな「縁起のふるさと」があるからこそ、私達は病気にかかって病人に成る事が出来るのであり、病気を克服して健康人に成る事も出来るのです。病気にかかり病人に成る事が出来るという事は、病気を治し健康人に成る事が出来る事なのです。ここで、正しい根源的な努力が大事です。かの「ふるさと」を思い起こしきちんと認識しながらの、より正しい自然の理に叶った医療に努力すべきです。間違った、即ち、「間を違えた」努力は病気を悪化させます。「宇宙的ふるさとの認識」と「自然な医療」に向かう二つの努力が肝腎です。体だけの治療の従来の医療は限界です。いや、体の治療こそ「ふるさと」に帰りながらすべきです。「ふるさと」を忘れた医療は、遠廻りで間違いを起こし易く、真の人間成長と豊かさをも忘れさせます。

 神なくして神からの離反はなく、無分別なくして分別なく、空なくして色がなく、無なくして有がなく、「我と汝」なくして「我とそれ」もないのです。このふるさとに帰りながらの日々の営みは、内容と質が全く変わります。全く同じ仕事や勉強をしていても、すっかり変わります。また、若返ります。本当の本当の医療が実現し、一層、健康になります。生命のふるさとに安らぎ、憩(いこ)う事が出来て、新しい地平が開かれ、異質な爆発的エネルギーが与えられるからです。

たいがいの人がしかし、こうした私達の最も根源的な「存在のふるさと」を忘れています。近代の科学と経済優先の時代にあって、私達は故郷にいながらも「かのふるさと」を一層激しく忘れました。これは、今日の全世界をおおっている「時代苦」です。私達はかの「存在のふるさと」を思い起こさねばなりません。そして、その「ふるさと」に安らう術(すべ)を身につけねばなりません。私達に課せられた大事な大事な宿題です。私達の「存在のふるさと」は、あまりに身近にあるために、いつの時代も理解されにくく忘れ去られる宿命を持ち、それ故に、絶えず呼び起こし 訴えねばならないのです。

 先人の教えに「衣食足りて礼節を知る」(管子BC5?)–生活が安定してこそ人はマナーがよくなる、がある。これはごもっともです。But. 「衣食足りて礼節を忘れる」もまた真ではないでしょうか? 戦乱の世にあって明日の命も解らない時、食うや食わずの貧しさにあえいでいる時、病苦にうめく時、かの「存在のふるさと」の話なんぞ聴けるか!でしょう。民(国民)のこうした苦しみを解放せんとするのが為政者の務めであり、名君か否かの基準にされてきました。これは、管子から2500年経った議会制民主主義の今日の日本でも政治形態の違いこそあれ、同じでしょう。

ここに、大きな二つの問題が潜んでいます。(1) 戦乱と貧困と病苦からの解放は人類の長い長い悲願でした。この悲願が、日本を含む先進諸国ではほぼ達成されました。むろん、様々な問題が沢山残されてありますが、一定の安定は実現されています。(2) しかし、正にこの故に、「人間の問題」が置き去りにされてあります。自由の名の下、神を殺し、天を忘れ、「人間中心」の世界観と人生観が主流になった今日、地球を「ゼニもうけの生産工場」にしてしまいました。農業も産業も。そのツケと罰が、「異常天候」にも現れています。「天、地、人」を「人、地、天」にひっくり返した当然の結末です。こうした事態の根底に、かの「私達の存在のふるさとの忘却」があります。大自然の無数、無限の縁起、私達の存在の縁起である「ふるさとの忘却」は、私達の存在の基盤を失います。「ふるさとの想起と復活」は、急務なのですが最も困難なテーマです。私達の最も身近なテーマである故にです。毎日、人間をやっているのに、「人間」について真剣に探究せんとする人が稀であるように。私達のこうした避けがたい宿命は「業(ごう)」と言えましょう。忘れ易いものであるだけに、忘れても生きていけそうに思えるだけに厄介です。

 この業は、戦乱と貧困と病苦の克服よりも厄介です。戦乱と貧困と病苦の克服は、現象面の事柄なので非常に分かり易く理解され易い。対する「ふるさと」は、忘れ去られ圧迫され踏みにじられがちです。「ふるさとと現象界」は、本当は両者一体なので、両者を打ち出すべきなのだが、政策としては受けのいい現象面だけになりがちで–政治の課題と苦悩もここにあるべき–それ故に「衣食足りて礼節を忘れる」が常に起こりがちで、今日の経済至上主義と情報化時代は、一層深刻です。

経済が、本来の「経世済民」(民を救い世を収める)としての経済でなく「もうけ主義」の経済になり、「ゼニがすべて」の世の中になり、情報化が「ふるさと」を忘れた現象面での表面だけの情報になる時、私達は一層、根っこのふるさとを失い、こけていきます。「衣食足りて礼節を忘れる」が常態化します。今日の政界や教育界、芸能界の低級なスキャンダルや失言問題のみならず、訳が解らない患者さんにも強く現れています。当院の顧問のような開業医もボヤイテいました。「真剣さのない訳が解らない患者が、20年前の10倍以上に増えている」と。「ふるさと」は縁起で関係の世界(次元)で、この忘却は当然、私達の現象界の現実の縁起と関係を破壊します。これも今日の私達には避けがたい時代の苦悩、「時代苦」と言えましょう。

 こうした時代苦と闘い、「忘れがちなふるさとの智恵」を、西洋文化との闘いを通して生涯をかけて示さんとした哲人の代表として、西田幾多郎、和辻哲郎、鈴木大拙、清沢満之、岡倉天心をあげたい。多くの人々が、高学歴の人々も、全国30万人の医師を含む看護師や理学療法士や鍼灸師や整体師等の数百万人もの医療従事者のほぼ全員が、国民のほぼ全員がこうした「ふるさとの智恵」に全く気づいていない。だから底が浅く陳腐(ちんぷ)で、病気も治らないままに施設行きなのです。

これはしかし、やむを得ません。学校教育も、社会教育も、医学教育も、政界も経済界もこうした智恵を忘れているのですから。多くの仏教者でさえも、葬式や法事に明け暮れ、自己保身に四苦八苦しているのですから。であればこそ尚の事、私共、叫ばなければならないのです。「日本が世界に誇り、世界をリードしていける上記のふるさとの智恵がある」と。→「理念、根源的関係の病理観と空の医療 」No1

[6] 検査づけ、薬づけ 医療の問題

 これは以前から指摘されているが、改善されていない。薬の第3の問題点は、今日の日本の薬物中心の医療によって、多くの病人が薬付けになっていて、慢性疾患の殆どが治らずにお手上げの状況にある事です。従って、もはや薬を体内に取り込む医療は限界にきています。むしろ、体内にたまった薬を排泄せねばならない状況にあります。加えて、栄養過多による太り過ぎが国民的課題になり、メタボ健診が行われている時代。ですので、薬を一切使わない医療が決め手になります。

 とりわけ、従来の「取り込む医療」から「排泄医療」への転換が大事。薬、ワクチン、点滴、輸血等の取り込みには、多額の金がかかり、間違いも必ず生ずる→「エイズの完治をめざして」

 ところで、「薬」という言葉の意味について先に述べましたが、「これは、かつての自然薬には言えるが、今の化学薬品には妥当しない」という指摘をある薬剤師から受けた事があります。これはもっともらしいが、しかし、化学薬品といえども原料は自然物です。人工的化学薬品といえども、元の原料は自然物です。自然物がなければ人工的化学薬品は作れません。人畜無害の夢の人工化合物といわれたフロンガス(ドイツの化学者が開発。冷蔵庫、自販機の冷蔵、IC回路やレンズのクリーニング等に大量に使われた為にオゾン層を破壊)の原料が、塩とフッ素であるように。従って、「薬」の草冠に楽という意味合いは崩れないと思います。慢性疾患がお手上げの今の日本医療の薬物中心の医療の現実から見ても。

7当院での検査器具は血圧計のみ

 皆さんお一人お一人の体が、「最大、最高の生命検査機器」です。あらゆる全ての病気を患者さんが身をもって示しています。これ以上の検査機器がこの世にありましょうか? レントゲンやらCT やら M.R.I やら pET やらは「網すくい、ザルすくい」であり、つかめる病気はごく一部です。これらは、愚か物。一切不要。人の作った検査器具は限定的で、つかめる病気はごく一部にすぎません。また、医療の目的は、検査ではなく治る事のはずでは? 余計な事をやって、ゼニかけてかっこつけてもったいぶっているのです。

これらをマスコミや世の人々は「医療の高度化」と呼んで賛美し、国は、高価な薬や医療機器の売買の利潤追求による「経済活性化」をもくろむ一方、ぼうだいな社会保障費におののいています。愚かです。大宇宙150億年の大歴史の大結晶である皆さんお一人お一人の人体が、あらゆる病気をストレートに明確に知らせているのに、、、

8視診と問診と触診を重視

 先ず、動作と顔の表情にここに書ききれないほどの沢山の病気が読み取れます。一つの動作、一つのイボが、何らかの病気を告げている。患者さんの目と声、匂いも大事。病気が目や声や匂いに出る。次は問診。「自己診断カード」に、現在の問題ヵ所の全てを書いて頂きます。確認後、脈や舌のシグナルを読み取る。そして触診。あらゆる病気が皮膚や筋肉に出ているので、触診で病気をつかめます。いずれも「読み込み」と「暗号解読」によって可能。これほどの「生命の情報」を皆さんが発しているのですので、大げさな医療検査器機は、やはり「愚か物」。

9】100以上の疾患を手がけて、数回治療によって完治か改善を目指しています。当院では、この事を実現しています→「適応症」、「体験談」

10】はり治療・・細くてしなるはりを使います。長さは治療場所によって異なる。電気パルスを使用する事あり。尚、手術は当院ではやらないが、電気パルスによるはり刺激によって、はり麻酔がかかり手術も可能。意識あり、出血なし。40年ほど前にアメリカの科学者が発見。はりの刺激で間脳からのモルヒネ様のエンドロフィンが分泌されて麻酔がかかる。これをやれば、麻酔薬不要。輸血や献血も殆ど不要になるのだが、やろうとしない。

11】灸治療・・・小さいお灸です。
皆さんには、あまりなじみがないかもしれませんが、大変よく効きます。徳川家康は労咳(ろうがい、肺結核)をお灸で治したといわれています。弘法大師が開発したという「弘法の灸」です。現在、「はり治療」は欧米に知られてきていますが、「灸治療」は広まっていないようです。お灸に対する熱さ、火傷等の偏見が強くあるようです。「灸治療」を広める事も私共の使命です。当院での癌治療の決め手でもあります。他の治療との併用によっての。

12】各種電気療法・・・超音波、低周波、高周波、レーザーなどの電気医器による治療。

13】手技療法・・けい椎や腰椎の矯正、手かざし、手当て。手当ては究極の治療。これに徹すればあらゆる治療器機は不要。特に赤ちゃんに有効。癌の痛みもとれるが、翌日、私共のからだに激しい頭痛、目まい、鼻づまり、背筋痛等の変調をきたすのであまり出来ません。相手のすさまじい悪いエネルギーを私が受け止め、かぶるためでしょう。治療器機や器具を一切使わずに手当治療だけに徹するとすれば、一日に二人が限度です。

14】食事療法・・・内臓疾患やアレルギー疾患に効果的。
栄養学による栄養摂取よりも、五味を重視します。 酸、苦、甘、辛、塩の五つの味のバランスです。これが狂うとアレルギーや炎症、うつ病等の精神疾患をも引き起こします。「五味の医学」と名づけています。冷たいものは避けて、温かいものをとるのが原則です。中国医学の原典と原点として「黄帝内経素問霊枢(おうていないけいそもんれいすう)」(京都、仁和寺所蔵、国宝)を置いています。

15】カッピング療法・・・体をクリーニングするのに最適。吸玉療法、吸角療法ともいう。この療法は、一般には東洋医学の療法といわれていますが、西洋医学の療法といってもよいと思います。この療法を「近代医学の父」とあがめられている古代ギリシャの医師、ヒポクラテス(B.C400 )が積極的に行っていたからです(『ヒポクラテス全集』)。ですが、次のローマ時代になるとなぜか「カッピング療法」が切り捨てられて、「薬物療法」が主流になり、手術が加わりました。この流れがヨーロッパとアメリカに浸透し、明治以降の日本の西洋近代医学になり、こんにちに至っています。

ですから、medicine (薬) がそのままに医学(medicine) になったのです。但し、このmedicine の薬は、漢方薬の自然薬ではなく化学薬品の薬。日本の明治時代の始めに、「医療の近代化」の名の下、それまでの漢方薬と漢方医が閉め出されたのも問題。この時に共存の政策がなされていたなら、日本の医療は大きく変わっていたでしょう。

 ヒポクラテスが積極的に行ったカッピング療法が、その後に切り捨てられて薬物療法中心の医療になったのはなぜか?これは、現代医療の根幹に関わる大変大きな問題です。確かな資料に基づく確証はなく推測するしかないのですが、恐らくは、カッピング療法は大変効果があるが、いや、効果があるが故にカットされたのでは?と思われます。

うがった見方かも知れませんが、カッピング療法は単純だが奥が深く効果絶大。しかも、一見して誰でも素人でもできそうな感じがします。そこで「医療は高度で専門家の仕事!」といった変なプロ意識が働いたためかも知れません。または、薬物療法の方が治療に時間がかからずにゼニになるからかも知れません。いずれにせよ、ローマ時代にカッピング療法が医療の中心から外されて「薬物偏重の医療」になった事は、人類にとって大変不幸な出来事。これから正さねばなりません。

 また、日本の医学者による医学史のテキストで、ヒポクラテスに触れているものは多い。そこに、医師としての倫理をうたった「ヒボクラテスの誓い」や病気の本質が血液にあるとした「ヒボクラテスの病理観」についてはよく見かける。福島県にはヒボクラテスの銅像を祭っている病院がある。が、ヒボクラテスが殆ど全ての病気にカッピング療法を行っていた事に触れているテキストや像を見かけないのは不思議です。日本の医学者のヒポクラテス研究者や愛好家は、カッピング療法の大事を知らずにこれを排除したのか、あるいは「ヒボクラテス全集」を読まずに単なる受け売りで記述したのでは? と疑わしくなるほどです。

 近年、中国と韓国の時代劇が日本のBs放送で盛んに放映されて、DVDもたやすく求められる時代になりました。私共、20本もの長編作品に付き合いました。今日の私達日本人が忘れかけていた生活、倫理、歴史が思い起こされて、大変勉強になりました。その中にはり、灸、漢方薬がしばしば出てきましたが、カッピング療法は一度も見かけませんでした。

 人類は、何万年も野山を駆け巡り、あしや手に傷をつくり化膿し、蜂や虫に刺されて腫れ上がり、動物と格闘し重症を負う。毒蛇にかまれて命が危うくなるといった時に、切皮して、竹、羊や鹿の角を使って毒を吸い出す治療をやっていたようです。口で吸い出すのは危険なので。ですから、カッピング療法を吸角療法ともいうのです。医学の医の矢は、矢じりを示しています。

かつてのむずかしい漢字の「い」は、残念ながらスマホの編集では漢字がなくて表記出来ないのですが、矢と壺(つぼ)を表しています。壺は薬草を入れる壺か、あるいはカッピング療法の壺です。これらは 今でいう外科治療。矢じりや石器や壺、薬草を使うのが医療の原点で、石器時代に由来する長い歴史を。持っています。なのに中国や韓国や日本の時代劇にカッピング療法が見られないのもまた不思議です。

 何故か? 一因として、「黄帝内経素問霊枢」の中のカッピング療法に関する記述 が削除された事と本家である中国において、「黄帝内経素問霊枢」が紛失てしまった事に関連しているかもしれません。中国でもいつの時代にかカッピング療法が削除され、ついには「黄帝内経素問霊枢」までも消し去られたのです。それが、幸いにも京都の仁和寺に残されたのですが。話しに飛躍があるかもしれませんが、中国医学最古の原典であり原点とも言われた「黄帝内経素問霊枢」の影響力には「道教(タオイズム)」にも強い影響を及ばした絶大なものがあった事を思うと、 (京都仁和寺の「黄帝内経素問霊枢」が日本の国宝) その反動?の力にもかなりのものがあったと思われるのです。

 カッピング療法が、西欧ではヒボクラテスの後に医療の本流から外され、中国では「黄帝内経素問霊枢」からその記述が削除され、日本ではヒポクラテスの紹介に於いてカッピング療法が削除され、中国や韓国や日本の時代劇からも削除されているのは、単なる偶然でしょうか?

 [16] 老子の無の教えは病理観の基盤になるが、孔子様はムリ

この話しは尽きないのでこれ位にしますが、もう一点。中国で制作された「孔子」のDVDを私共2作品を所蔵してますが、両作品に大きな間違いがあります。それは、両作品とも「老子を先輩に、孔子を後輩に設定してある事」です。これは、民間信仰と老子が混合されてある「道教(タオイズム)」の熱烈な信者にもしばしば見られる間違い。司馬遷の「史記」にさえも、第一説として老子が先輩に設定されてあるのでやむを得ないのですが、「礼」を完全否定している老子に、孔子がうやうやしく「礼」について教えを乞う場面があります。矛盾であり奇妙なだけでなく、老子の無の教えは、アンチ(反)孔子の流れから生まれたもので、孔子が先輩でなくてはならず、孔子なくして老子の智恵は理解出来ず、思想の流れも理解できません。

会津の戊辰戦争での悲劇、今日までも続いている会津や福島県に対する徹底した差別による悲劇 は、皮肉にも「忠」と「礼」を尽くす事による平和を強く願った孔子の教え–曲解され矮小化(小さく)されて会津藩に伝わった面があるが–に殉じた会津藩に対する激しい反動の悲劇と見る事が出来る。(例えば、国立大学の中での福島大学は、教育学と経済学の2学部だけ。総合大学になっておらず日本一貧弱。法学部も文学部も理学部も工学部も農学部も医学部もなし。原発設置にも影響あり) 

貴い教えや制度も、時がたち固定化されると権力闘争やあつれきを生み、悲劇を生む。会津藩の指導者に、孔子だけでなく、老子や禅仏教の無の教えがあったなら、これほどの会津の悲劇は避けられたはずです。2500年前に、老子はこうした事どもを明確に予見していました。だから、老子は孔子にかみつき否定したのです。ですので、老子の教えを孔子と切り離して単独に捉える事は可能ではあるが–そうしている人が結構いるが–やはり間違いで、アンチ孔子の範疇(枠内)で捉え理解すべきです。孔子の「忠、礼」といった教えがあったからこそ老子の「無の教え」が生まれたのです。

 更に飛躍しますが、私共の病理観の根底に「禅仏教と老子の無の教え」があります。両者の「無の教え」には近いものがあり、両者の混合思想が中国や日本にも見られます。禅と老子の無の教えは、私共の病理観の基盤に欠かせませんが、孔子の教えは私共の「道義の基盤」にはなり得ても「病理観の基盤」にはなりません。「患者さんに寄り添う医療」を求める声をよく耳にしますが、寄り添うだけでは病気は治りません。むろん、患者さんに対する思いやり、愛はなくてはなりません。が、当然、医学が必要です。

但し、この医学が科学的医学だけでは限界でダメです。科学的データに基づく医療は、電子カルテによるパソコン医療は、「網すくい、ザルすくいの医療」です。人体の多くのサインを見落としています。磐梯山麓の当院に、改善せずに苦しんでいる患者さんが、北海道、仙台、東京、前橋、静岡、奈良からもおみえになっている状況です。

そこで、私共、哲学的医学とその医療を強力に打ち出さねばならないのです。でないと、難しい病気に向き合えないのです。こうした試みをこのHPに見られるほどのものを私共見かけません。これが私共の使命です。単なる寄り添いだけではなく「病気の発症と完治の哲学的メカニズムの樹立」に命を張っています。よって、孔子様では間に合わないのです。

 一本の草木に例えると、孔子の教えは地上の茎、枝、葉であり、花。禅と老子の教えは地下の根っこです。地上の草木の花に目をとめる画家や写真家は沢山いるが、その根に思いを潜める人は稀でしょう。富士山も同じ。富士の美しい峰を愛(め)でる絵画や写真はあふれているが、その地下の絵画や写真はありません! しかし、地下なくて地上はなく、もともと、孔子の「忠、礼」や孟子の「仁、義、礼、智、信」も、老子の「無のふるさと」の次元がなければ生まれる事は出来ないのです。「無のふるさと」、「存在のふるさと」とは「無数の縁起の次元」です。

 人はいう「前を向いて、上を向いて!」と。失敗した時や不幸に見舞われた時、東北大震災直後にもよく耳にしました。スポーツ選手もよく言います。今の日本人の常套(決まり)語のようです。But. 「ちょっと待って下さい!」。後ろのない前はなく、下のない上はありません。後ろを振り返らずに前進すると同じ過ちを犯すし、下を見ずに上を向いて歩けばつまづき転んで大怪我をします。後ろを見ながら前を見て、天空を見ながら地下にもぐる営みが求められてあります。

 [17] カッピング治療法には、次の機能があります。

(ア)体内にたまっていたガスが、あずき色になって出ます。色の濃度は、人によって異なります。

(イ)余計なものがいっぱいたまっているばあいに、水泡(すいほう;水ぶくれ)反応が出ることがあります。 これは、意図的に出すものではなく、体内から出たがっているものが出て来るのです。 大変良いことです。 きちっと処置します。

(ウ)一度に、多くのポイントを治療できる点でも、優れています。 はやく、安くできます。

(エ)顔や首などの目立つところは、他の治療で対処できます。

(オ)体内に何も入れないので、安全です。

(カ)色が気になる方は、他の療法にします。但し、治療回数が増えます。複数の沢山の病気の同時治療にはカッピング療法が最適です。一度に沢山の治療が出来るからです。                

※リオデジャネイロオリンピックでの水泳選手で、22個の金メダルをとったマイケル、フィリップス(米)は、このカップ治療を受けていました。 プロレスラーのアントニオ猪木も、ハンマー投げの室伏選手も受けていました。さて、フィリップス選手のTV実況放送の時、この選手のカッピングの跡の色でアナウンサーと解説者が、カッピング療法を話題にしたそうです。そこで、解説者が「この療法は科学的に効果が実証されていない」と述べたそうです。

困った知ったかぶりです。「科学的に効果が実証されていない」と言うからには、その根拠を示すべき。この解説者の言う科学とはどんな科学なのか?実証と言うが、自分で実証してみたのか?ごくごく常識的に考えても、オリンピックで22個もの金メダルを獲得した人が、効果のない治療をするでしょうか? それも、裸の競技なのにカップの跡までつけて? 20年ほど前のアメリカのロスアンジェルスオリンピック大会でも銅メダルを3個とったアメリカの若い女子体操選手(マクドナルド?)もカッピング療法を背中にやっていました。当時はあまり話題になりませんでしたが。

[18]現代の医師の仕事は? 製薬会社が作った薬の監視役? 医師との協力関係を密に!

 先日、リウマチで5年余り、5種類の薬を毎日3回のみながらも手足と膝と肩が腫れて夜も病み苦しみ、日増しに悪くなり、台所仕事も出来なくなり、寝込む事が多くなった福島市の中年女性が見えました。当院での3週間、9回の治療で痛みが殆どなくなり、食欲が出て、寝込まずに台所仕事も草むしりも出来るまでになりました。薬は現在、痛い時に一種類をのむだけ。間もなくリウマチ因子もなくなり完治の予定。薬は全く不要になります。

 さて問題は、この患者さんが検査のためにそれまでの病院に行った時の医師のことば。カッピング療法の跡を見るなり「この療法は学問的に実証されていないので、もう受けないように。大事な商品に傷をつけないように」だったそうです。これが本当に事実ならば、とんでもないバカタレです。

この医師の言う「学問」とはどんな学問なのか?カッピング療法をきちんと学び体験した上で言っているのか?患者さんのこれまでの5年余りの2000日もの苦しみの責任は? わずか3週間の9回治療で痛みが改善し、台所仕事も草むしりも出来るまでになった事実をどう受け止めるのか? 

当院での療法の経過を尋ねもせずに、頭ごなしに否定するとは傲慢不遜! 「言う事は言われてあり、批判する事は批判されてある」のです。尚、私共の学問は、知識をかき集めてうまく組み合わせて利用しょうといったものではない。。「問の在りか」を探り、「問題の問い」を学んでいくのです。問題に真剣に向き合い、その「関係の間」に自分を放つ事によって、様々なインスピレーションとすさまじいエネルギーが与えられます。

 病院に真面目に5年も通いながらも悪くなり、わずかなご飯をやっと食べて、痛みで夜も眠れない毎日で、勤めも出来なくなってやめて、地獄の毎日、、おまけに腰痛で4回手術したご主人も、腰が思わしくなく仕事ができず、、二人共無職。この医師は先ずは自らの力不足を詫びるべき。次に、これまでの経費の全額を返すべき。患者さん本人と健康保険機関に。

 更に「大事な商品に傷をつけるな」とは何事か。商品?とはひどいですね。大臣なら、即、罷免でしょ。「傷をつけるな」と言うが、「病院での手術はどうなんだ? 」。「4回も手術しても良くなく、仕事につけないご主人に対する責任は?」という事になります。カッピング療法の傷は、体内にたまっていたものが「ザクロのように」自然に出て来るもので、適切な処置をすると数日で治ります。悪いものがたまっていない人は絶対に出ない。ですので、意図的に出そうとして出るものではありません。また、神経一本、血管一本切れてません。無知の偏見もいいとこで不誠実極まりないやからです。

他人の治療に対する無責任な批判 (本当は批判になっていないが) をする前に、さっさと治してあげて5年もの地獄の苦しみを解放してあげるのが医療なのでは? 「医」の漢字の意味も知らない輩(やから)が、知ったかぶりして医学を語り、治らない医療を続けてゼニもうけに走っているのだから世の中おかしくなるのも当然。「医」の漢字に関連する何万年ものカッピング療法の意味と歴史が判っている人は、上記の医師のような言葉は決して吐かないはず。

  この医師は、5年間、この患者さんにどんな医療をしたのか? 血液検査によって薬を飲ませただけじゃないですか? この検査は自分でしたのではなく、検査機関のもの。薬も自分で作ったものでなく製薬会社が作ったもの、、となると、薬の効き具合をながめていただけの「製薬会社の薬の効果をみる監視役」にすぎないということ。情けなく空しくないものか? 安定した高額な収入があればよいのか?社会的罪つくりはしていないか? 本当は、こんな下らない事にエネルギーを使わずに互いに協力し合いたいものです。病人の救いを求めて! 医療の目的は「病人の救い」なのですから。ここで注意せねばならないのは、患者さんの「心変わりと転向」。この女性は素直でスレていないので大丈夫と思いますが、浮き草のような信念のない支離滅裂な患者さんが、近年増えています。

 [19] 当院においでの際は真剣に! 中途はんぱな方はお断りします。このHPの全てのご理解は望みませんが、私共の方向性と祈りはご理解下さい。

 訳が解らない方が増えています。現代病院で治らずに当院にみえて、病院の検査と薬付け医療を批判し、当院の数回治療で明らかに良くなっているにもかかわらず、元の検査付けと薬付け医療に戻る人も出ています。ぜん息発作が一回治療で止まり、「明日は日曜日で学校は休みでしょ。心配なのでもう一度治療を」という私の提案、指示に対して「明日はおじさんと酒飲みを予定しているのでムリ」とほざく校長先生もいました、、自殺する子供と自殺後の教師や教育委員会のバカタレどもの無責任さも想定できます。

 薬が増える事は悪くなっているという事なのに、何の疑いもなく増え続ける薬を毎日、何年も喜んでのみ続けて、心も体も訳が判らなくなり、もめ事が増え、変な事件を起こしたり、施設行きになったりの低級な次元で悪あがきをしている人も増えている今日、、世も末です。高血圧症、痛風、糖尿病等はむろん、五十肩も坐骨神経痛も尚さずに何十年も薬づけにしたあげくにリハビリや介護施設に回すものだから、リハビリや介護の安給料のスタッフが悲鳴をあげるのは当然です。

  今日の日本の医療(制度)のデタラメさに加えて、真剣さのないデタラメな人がこれ以上増えると、バカバカしくてやっておれなくなります。今日の日本の人々の心の乱れは深刻です。おまけに、中央だけでなく地方の指導者層の多くがデタラメと自己保身に終始しているとなると、日本の根底からの崩壊が進みます。北朝鮮の核ミサイルよりも遥かに深刻な得体の知れない不気味な問題が起きていると私共はみています。それは、「塩気の全くない料理のような社会」の到来です。目付きが異常で、喜怒哀楽を失っているひとが大量に出現する、味気ない不気味な社会の到来、、、

「毎日、呼吸をしてご飯を食べて歩いておしゃべりをする。働く事も学ぶ事も出来る」。こうしたひとつひとつの出来事の驚きとすごさに気付き、震え、涙を流す教育が、政治が、経済が、医療が、福祉が、家族が、あまりに無さすぎました。私共の反省と怒りと情熱は、一層激しくなりそうです。

尚、ここでの福島市のリウマチの患者さんの話しは「体験談」(3) に続いています。

[お蔭様で34周年]

当院の約3割の方は真剣です。殆どの方がくちコミの縁です。これもまた驚くべき事であり、すごい事に違いありません。磐梯山の西方、雄国山麓で、34周年を迎える事が出来ました。約5万人の患者さんと向き合いました。お蔭様で「万病克服と医療革命の道」が見えてきました。鍛えられ励まされた皆様に、人類の歴史と多くの先人に、そして、大自然と天に感謝申し上げます。2017.9.9

✳カッピング療法には、ガス抜きや冷え抜き、筋肉の弛緩(ゆるみ)等の深いものがあるのですが、特殊な漢字による表記が必要です。スマホの編集による漢字では間に合わないので、残念ながらこれ位にとどめます。

✳体操界のホープ、内村航平選手は、リオデジャネイロオリンピック大会中、はり治療を受けていました。

✳ 遠隔治療も可能。私が会津の当院にいながらの東京等の患者さんとの遠隔治療も可能です。一切の医療器具なし。毎夜の同時間、互いに5分間、○○しながら瞑想します。痛み等の苦痛が取れて、癌の消失も可能です。但し、相手の患者さんの精神が純粋で透明でないと、また、私共のような哲理を理解しようという意志と努力がないと、病気が治っても「誤解とあつれき」が残りがち。現在は中止しています。「時機と方法」が大事。時が満ちる時機と正しい方法が肝腎。やがて再開し、発表出来る時がくれば、、、

✳ 下段のカテゴリーには、「インフルエンザ」と「そう・うつ病」、韓国時代劇「テ、ジョヨン」の「天統法典」について述べています。

✳ 案内は、「福島原発事故後の甲状腺について」のあとに記されています→ 「案内」をクリック願います。