※コロナ肺炎、インフルエンザはちっとも怖くありません。当院では通常、2~3回治療によって治り、元気もりもりです。

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<はじめに> 2024,12月

私、渡部  至  、76歳。間もないので、遺言のつもりで遠慮なく述べさせていただきます。但し、内容がかなり深刻なもので、患者さん向けのものではないかもしれません。当面は私の願いと指針を感じていただけるだけで有り難いです。

ドジャースの大谷選手の活躍は驚きで凄いですね。しかし実は、大谷君だけでなく、皆さんお一人お一人が驚きであり凄いのです。大谷君の出身が岩手県奥州市で、宮沢賢治さんの出生地の花巻市に近い事に注目したい。大谷君の品格は賢治さんの影響によるものでは?と私は感じている。無意識の内にも。 

尚、賢治さんの生き方と作品の根底には仏教があった事を加筆したい。有名な『雨二モマケズ』の根底にも仏教がありました。『雨二モマケズ』の末尾には仏教経文が添えられていたのである。(日蓮宗で天才軍人といわれた石原莞爾(かんじ)に同じグループに属していた)。彼の作品は、こんにち流行の一個人の単なる能力や個性や感性の表現によるものではない。仏教との真剣な出会いの格闘の只中に生まれたものです。

ついでといってはなんですが、新渡戸稲造おじちゃんも忘れてならない明治の哲人ですが、岩手県出身です。岩手県には、哲人を生む伝統・風土がありそうです。

賢治さんは肺炎で他界37歳。愛する妹トシさんは肺結核で23歳で夭逝(ようせい)。二人とも冷えにマケタのである。より正しくは、「冷えの怖さ」に無知であった。(この無知は近・現代西洋医療に通ずる大問題)。『永訣の朝』の最期の食(じき)の求めが「雪あられ(雪の結晶)」であった事、『永訣の朝』の当初の草稿にアイスクリームを最高のごちそうと見なしていた事を鑑(かんが)みるに、冷えに糖分摂取過剰が重なったようである。

トシさんも真面目な仏教信仰者で、結核の病と闘った最期のことばが「他人の苦しみでなく自分の苦しみだけで苦しむ自分が恨めしい。今度生まれてくる時にはそうでない自分に生まれてくる」であった『永訣の朝』)。

こうした精神が、仙台市出身の梅原猛さんの学説や小田和正、及び吉幾三両氏の歌にも流れているようです。小田和正さんが東北大学卒であるが、吉幾三さんは青森県の田舎の寺の生まれで中学卒である。痛快なり。

目と耳が2つ、鼻と口が1つずつが後ろでなく前にチヤンとついている。横や後ろに付いている人は、まだ一度も見かけない。心臓は夜も休まずに毎日10万回動いている。

更に、手足が2本づつ付いていて、目的地に歩いて行けて色んな事が出来ている。出(い)で来(き)ている。その手足を自らつくった人は誰もいない。

私どもと予約してその日時にキチンと来院して、殆ど裸でベッドに横たわる。「縁起(えんぎ)の病理観とその医療」によって、帰りにはほぼ全員がニコニコ顔で帰られる。

私達の全身の「無言の言霊(ことだま)」による不思議が実現・具現されてあります。

飛躍しましたが、こうした事に思いを潜めながら読んで戴けると親しみ易いと思います。


本稿の「名著13選のお薦め」は、ほかでもない私への薦めでもあります。私の私に対する「道しるべ」でもあります。シッカと向き合います。

この50年、幸い、痛み・かゆみが全くなく健康。内科薬をのんでいない。ワクチンも1回も受けていない。病院に行ったのは1回だけ。尚、名著13選の名著は最寄りの図書館にありますが、ない場合は、その図書館を通して県立図書館や国立国会図書館に貸し出し願う手があります。正に、科学技術のオンラインのおかげです。

さまざまな出会いによる学びのお陰で、大自然と心身の神秘がちと開かれ、ようやく20歳になれた感覚で、毎日が成人の日です。これまでに前科なし。車の運転免許証取得後の55年間、無事故。

さあ、「これからが勝負!」というバイタリティーにあふれる一方、「まぁまぁ、これでよし!」。昨春の75歳時に『新しい医道の樹立に向かって』──東西両医の哲学・宗教・科学の超克(ちょうこく:克服)による「医の革命」の試み──という私の生涯を賭けた作品が完成したので、我が人生も完成、完了! 贖罪(しょくざい: 刑法上でなく道義上の罪滅ぼし)と報恩に生きようとも思っています。

残されたく恐らくは最後の大仕事になるであろう交響曲『広島&長崎』の作曲に打ち込むもよし。私の作曲能力は乏しいが、チィコフスキーの交響曲第6番「悲壮」からの啓示に期待している。当院の後継者が与えられれば、リュックサックにハーモニカと横笛を入れて放浪の旅に出るもよし。少しかっこよく芭蕉や西行の真似をするもよし。ドノバンのような”吟遊詩人”になるもよし。ホンモノの人間との出会いを求めながら。私の「究極の医療」の伝道の為の外国での旅もあり、です。

尚、本稿は未完です。作品は、常に完成であり途上にあります。私達の存在がそうである故ですが、本稿のテーマの困難さが大きな要因です。
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こんにちの危機は、火山、地震、津波、水害等の天変地異による災害を含みますが、それ以上に近年のひっ迫する世界情勢と日本の危機を意味します。私達日本人の多くが、天変地異による災害に対する危機意識はあっても、又、近年のひっ迫する世界情勢と日本の危険性のニュースは流れていても、こうした危機に対する私達の心身の備えが不充分である事が心配。政府もマスコミも真剣に訴えるべきです。

東日本大震災に見られたように、地震と津波による自然災害は甚大で無論、無視できないが、原発事故による災害――つまりは、人為的災害の方が自然災害よりも遙かに甚大であった事を認識すべきでありましょう。自然災害だけならば、避難途上での様々な悲劇は少なく、災害から13年が経った今も、2万9千人の方が故郷に帰る事が出来ないといった悲劇は起こらないでしよう(2024,8,1 時点。Google)。

近代文明と近代科学・技術の誕生と発展には、目を見張るものがある。巨大な物質文明が開かれ、81億人もの人が暮らせる時代になった。自由と平等の社会が実現し、炊飯器、洗濯機、冷蔵庫、車、スマホなどの近代科学・技術の発展のお陰で楽に豊かに暮らすことができる時代になった。

しかし、大きな課題が残された。ロシア・ウクライナ戦争に続いてイスラエル・イラン戦争が勃発。第三次世界大戦の噂さえも聞こえている。米中ロの国内自体に、多くの波乱要因を含み危険な状況にある。勿論、どの時代にも問題はある。問題を含まない時代はない。しかし、近年の状況は深刻。我が日本の状況も深刻で、知れば知るほどその深刻さが浮き彫りになる状況にある。中国、ロシア、北朝鮮の核ミサイルの脅威にさらされてある。頼りのアメリカも自国内に様々な爆弾を抱えており、自国の統制がままならない事態になると、日本にかまけている余裕はなくなろう。「裏金づくり」などにかまけている時代ではない。かの連中の「寝ぼけ」もひどい・・・「国民から選ばれた代表者」が聞いてあきれる。こともあろうに、日本をそして私達をいっそう危険にさらしています。

こんにちの私達の人生は、米ソ英仏中インドパキスタン北朝鮮イスラエルが保有する1万3千発もの核爆弾に覆われてあります。数十万年から数百万年もの人類の無数の先人の懸命な努力によって築かれたこんにちの私達の大そう恵まれた生命と文化の全てが、破滅しそうな状況にあります。逃げようにも逃げ切れない、人類史最大の危機に直面しています。私達は何をすべきで何が出来るのか? 大そう困難なテーマに、ことばが詰まります──私達は恵まれたままに引き裂かれた絶望的状況にあります。

しかしながら、ズタズタに引き裂かれてウワンウワン泣いている只中で、私達は笑う事が出来る存在です。もう一人の別な自己が、私を見つめながら微笑んでいる。「泣き笑い」です。間もなく、新たな元気と勇気が湧いてきます。そして、絶望を乗り越えていきます。こうした私達の底知れぬ 神秘のpower の恵みを胸に秘めて、”かすかな光”を探しに行ける存在です。長年の沈黙をへて、次のような論稿が与えられました。
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ここでの投稿の目的は、危険な現代に於ける学びと探究についての論稿です。従来の危険性を踏まえながらも、異なっている現代の危険性を正しく認識し、将来に備えた健やかな生き方と具体的政策を打ち出す事が出来そうなその土台づくりの「道しるべ」とそれに向かう「手法」を示そうとするものです。


【 確かな道しるべを得る為の「5つの手法」 】
これを示すにはそれなりの責任が伴います。皆さんが「道しるべ」を頼りに歩むのにも、迷いや疑念が伴うもので、おいそれと従う事は出来ない。困難で危険な時代状況を正しく認識し、将来に備えた健康な生き方と具体的政策を打ち出すには、確かな「道しるべ」と共に「手法」が必要です。これがなくては不安で進む事ができません。それも、ある特定の分野における部分的断片的なものではなく、スケールの大きい全体的・総合的な「道しるべ」と「手法」が求められてあります。

それがしかし、不思議や不思議!「部分的断片的なハゥツーもの」はしばしば見かけるが、全体的・総合的な「道しるべ」と「手法」に関する論評・作品を見かけない。(見かけたらお知らせ下さい)。それで、次のような「道しるべ」と5つの「手法」を提示させていただきます。これを踏み台にして議論を重ね、よりよいものをお示しいただければ幸いです。 

                            

(ァ) 先ずは「温故知新」(古きをたずねて新しきを知る『論語』)と「学問」から。
この小論は、『古事記』と『日本書紀』からスタートするが、「なんと呑気な!」と笑い飛ばされそうである。しかし、古典に学ぶ地道な努力を怠ると、認識が浅薄になり、目先の打算に目がくらみ道を誤る。過去のない今はなく、今のない未来はない。古人の教えとして伝わる「温故知新」を胸に、論を進めたい。この際の大事は「学問」です。ホンモノの学問は、正に「問を学ぶもの」。「問のありかを謙虚にさぐり、その問を学ぶ」のです。そして、「私達の本来のあり様(よう)を探究して実現・実行するのです。こうした「学問」を私達はすっかり忘れていました。こうした学問は、ギリシャのphilosophy (愛知学)に匹敵する、或いは超えるものがあるかもしれません。それは私達の、そして次世代の奮闘と仕事(事に仕える仕事)にかかっています。

私達の学びは大まかに、「知識の獲得」としての「学習」と「真理の探究」としての「学問」の二つがあります。受験勉強や司法試験合格の学びは「知識の獲得」、[学習」です。これは過去の経験知の学習でその習得は大事です。しかし、更なる大事に「真理の探究」としての「学問」があります。従来の日本には、この区別がなく、ごっちゃになっていた為に学問を阻害し、人生の指針にならずに私達の人生をも阻害していた向きがあります。「温故知新」には、単に過去の知識を習得するだけでなく、「真理の探究」による智恵の気づきがありましょう。でなければ、「古きをたずねて新しきを知る」の「新しきを知る」が叶いませんね?

但し、この学問に2種類がある事も大事。自己の範疇をはずした「近代科学的数量的思考法による客観的学問」と自己の範疇に直結させた「人間の現実存在(実存)をからめた全体的学問」の2つです。前者は近代科学・技術に直結し利便性に富んでいます。それだけに強烈です。仏教の悟りは、後者になります。後者の認識と思考の訓練がこんにちすっかりなおざりにされていて、それだけに一層大事なテーマになっています。「近代科学的数量的思考法による客観的学問」は技術向上に有益で利便性に富むが、人間の人格的向上に全く関与しないという恐ろしい側面があります。客観的学問と技術の集積によって人間的・人格的向上がなされてあると錯覚し易い危険性があります。いや、「人間的・人格的向上」という言葉さえも耳にしなくなっている時代です。

ここでの詳述は困難ですが、この論稿の全体が「人間の現実存在(実存)をからめた全体的学問」に向かっているので、方向づけと意図は充分つかんで頂けると思います。近年、「量子力学と仏教」といった論稿が見られるようになり楽しみです。近代科学を超える新たな現代科学が出現しています。

(イ)無数の本にある「私」への読者(私、自己)の投入による読書法の”開け”                                           本の中に登場する全ての「私」に、読者である自己(あなた)を投げ入れて、読んでいく。エッセイや論文の書き手は筆者の「私」であり、この「私」に自分を投げ入れて読み込む。つまり、著者になったつもりで読み込む。ここまでいくと、読み込むというより一緒に執筆していくと言った方が正確かもしれない。勿論、パソコンやスマホのメール文にも有効。読解力が何倍も増すだけでなく、著者の心理の理解を増し、自分の人格の変化も起こる。お薦めです。

俳優もこうした手法でセリフを覚えて演技をしているのかもしれない。少なくとも、役柄の人格と一体になろうとするとかの何らかの特別な手法を持たずに、長いセリフを単に暗唱して覚えねばならないとなると苦痛でちっともおもしろくないと思う。普段の会話における、相手の「私」への自己の投入も、人によっては可能かもしれない。いや、実は私達の普段の会話にこの投入がなされているのだが、無意識の中での出来事であり、明確な自覚がなされていない。この探究には深みがある。M・ブーバーの「我と汝」、そして禅仏教者、鈴木大拙さんの「無分別智」にも通じよう(詳細はのちほど。ネットでの検索も可)。

無意識と有意識の探究は、フロイトやユングの深層心理学へのアプローチも可能であり、更には、1800年前の無著、世親兄弟によって開かれた唯識仏教へのアプローチも可能である。霊界や神界へのアプローチも可能であろうが、長くなるのでここでは案内だけにとどめたい。


(ゥ)(?)づけによる自己の認識のクリーニング
私達は日々、様々な人や物事に出会い、その都度、認識し判断し行動しているが、日本語の末尾の結論の動詞を( )でくくってみる。英語は主語の後に動詞の結論があるのでそれを( )でくくる。

次に( )の中に?を入れて(?)もよし。私達は普段、何気なく対話をしたり、文章づくりをしたりしているが、末尾の結論の語を(?)でくくり、じっくり吟味・検討する手法が有効。この際の?の語をすぐには消去しない。その?の語を全体の文脈の中でじっくり吟味・検討し、当初の語が妥当であればそのままにして、別なふさわしい語があればそれに代えてみる。こうして文章を完成させる。これは、E・フッサールの現象学をモデルにした手法で、自己認識の浄化に有効です。

(エ)”縁起”を判断の基準にする
”縁起”ということばはこんにち、「今日は、縁起がいい、悪い」といった具合に使われるくらいで、死語になっている。「万物・万事が「因縁生起」(いんねんしょうき)している」。原因と関係によって、万物・万事が生まれている(結果)という”縁起”が仏教の本質なのだが、このことばが忘れられて死語になっている事態は、悲嘆の極みである。


大根の生育に例えると、わずか1mmほどの種子が大地にまかれる(原因)。この「原因」が、太陽や空気や重力、水や肥し等の「縁(関係)」によって発芽、成長して私達のあしほどに成長する、「生起」である(結果)⇒「因縁生起」。私達の生育も、原因や縁の素材は異なっても基本は同じである。

仏陀の「縁起」の教えが、およそ700年後の天才・竜樹によって「空」という語に変換された事は一大事であった。仏教の本質が「色即是空、空即是色」と示されて、非常に簡潔・明瞭になり便利?になったが、仏道修行者や仏教学者の共通語に陥り、一般庶民には理解困難になった側面がある。うがった見方かもしれないが、「仏教の権威付け」の為にわざと難しくして今も改めようとしないのではとも思う。

”空”とは、単に空っぽではない。実は、無数の縁起が詰まっている。即ち「”空”とは縁起」である。無も同じ。東洋医学を学ぶ際の「西洋医学を取り払って無にかえって東洋医学を受け入れるように!」(逆もみかける)といった教官の指導。選挙に負けた時や事業に失敗した時の「無にかえって再起したい!」。或いは又、武術の修行の際の「無!無!無!」といった光景を見聞するが、いずれも、「それまでの経験知を取り払って、己を空しくして!」といったたぐいの「無」であって、通俗的で浅薄な「無」である。「無」の深淵に達していない。では「無」とは何か?──「縁起」にほかなりません。
   
ついでに、仏教の「欲望の滅ぼし」について少し触れたい。仏教では、人の持つ根源的な三つの悪徳を貪瞋痴(とんじんち)としている。好きな物を貪ろうとする貪。嫌いなものをとことん嫌う瞋。迷いの中であがき苦しむ痴の三毒である。後には、「あらゆる欲望の滅ぼし」が仏道修行の目的になっていった経緯がある。厳しい修行に加えてのあらゆる「欲望の断ち切り」は残酷であったろう。男根を切り取る修行者や自殺者も出たという。ここまではいかなくとも、ノイローゼぎみになる修行者もいたであろう。「適当な悟り」でもってすまし顔のお坊さんも出たであろう。

実は、サンスクリット語の原典によると、”滅”の原語は、nirodha (サンスクリット語:ニローダ)で、「制御」であり、コントロールであった。チベット語ではfugoku(フゴク)。二語の原語の主たる意味は欲望の「滅」ではなく「制御」であり、「コントロール」であった。この事は『釈尊の人と思想(上)』(中村 元、日本放送出版協会S,50 p,205, 206)にも明示されてある。となると、仏道修行が私達凡人にも出来そうでほっと一息つけて安堵する。しかし、欲望のコントロールとて容易ではない。そこで現れたのが親鸞である。親鸞は仏教界でそれまで禁じられていた「肉食妻帯」を自ら破棄して、結婚。人間本来の自然な「救いの道」を探究し実現したのである。ここに、「滅の教え」との激しい闘いがあったに違いない。この「滅の教え」にも何か勿体ぶりと俗っぽい権威付けを感じる。私達の欲望を「制御する教え」でなく、「滅ぼす教え」にする事による勿体ぶりと通俗的権威付けである。「勿体ぶりと俗っぽい権威付け」はしかし、仏教界だけにみられるものではなく、政界、財界、医学界にあふれている。私達の日常にも。

話を本題に戻したい。この”縁起”を、物事の判断基準の物差しにしたい。相対(あいたい)する人や事物に対して、「縁起」にマッチするものに対してはYESを、マッチしないものに対してはNOを言いましょう。この縁起も、漠然としたものではなく、具体的な目先の人や事物の関係を通した、貫いたもので、家族や社会や自然の次元に及ぶものである事が望ましい。私達は「自然の子」であるからです。

(オ)更に、「温、湿、柔」によってふるいにかけてYESかNOかの判断をする。          私が会津の磐梯山麓で新築開業した当初、荒れ果てていた農地を求め、与えられて開墾。百姓の真似事を始めた。そして、おもしろい事に気づいた。よい作物が出来る3つの条件である。それは、土の「適度の温、湿、柔」である。大地の「適度の温もりと湿り気と柔らかさ」が作物生育の決め手になる。このポイントが、何と私達の心身にピッタシあてはまる事に気づいた。これは、私達の日々の生活上の価値判断にもなりそうである。ここに、二重の判断基準が与えられた。「縁起」による判断と「温、湿、柔」の判断による二重の判断基準である。こうした手法による判断の訓練によって、私達の眼識が研ぎ澄まされそうである。そして更に、「縁起」と「温、湿、柔」の関係に更なる展開が望めそうである。「縁起」によって「温、湿、柔」を整え、「温、湿、柔」によって「縁起」を育てる展開である。

天地に栄光あれ!あらゆる病気が、人の皮膚と筋肉に現れていて、その異常を改善すれば治るのです。     異常な人の皮膚と筋肉には、「適度の温、湿、柔」の狂いが見られる。必ずある。この異常を指でもってキャッチ。異常を正常に戻すように努めれば治癒するのである。よって、あらゆる検査機器は不要となる。私達の身体は、大宇宙138億年、太陽系48億年の歴史の結晶であり宝です。本来、あらゆる病気を示す機能を持っており、かつ治す力も持っている。人間がつくった検査機器や薬なんぞは、ちゃちなものです。

この「温、湿、柔」の捉え方は、私達の「心」や「社会」にもいえる。”温”は、愛、情熱、エネルギーであり、怒りも入れたい。この中の怒りが問題で、これを否定する向きがあるが、正義に根ざした怒りを否定すれば、何をしても構わないという事になり、警察も裁判所も学校も不要になろう。「怒りの健やかさ」は見直すべきである。近年、元気がない日本人が増えているが、その一因に「怒りの忘却」があろう。”湿”は循環。流通、コミュニケーション、教育、経済であり、あらゆる反応の要である。問題は"柔”である。これを智恵としたい。間違った考えや信条にガチガチに固まった人は、沢山の知識があっても身動きがとれなくなり、行き詰まり、枯れていく。事象の自然的根源に根ざした智恵がない為である。

温、湿、柔を自然界のものにあてはめると、温は太陽であり、湿は水であり、柔は赤ちゃんである。健康な赤ちゃんの身体の特に内臓はすばらしい。私は若い患者さんにかぎらず、80代の病人のお腹が数回治療によって赤ちゃんのお腹に成るように努力。この達成は最高!私の至高の喜びです。

こうした「温、湿、柔」の哲理を「縁起」につなげる。新たな政治、経済、教育、農業、医療の礎(いしずえ)になろう。私が5年をかけて完成させた『新たな医道の樹立に向かって』─東西両医の哲学・宗教・科学の超克による「医の革命」の試み─は、「温、湿、柔」の哲理を踏まえて「縁起による病理観とその医療」を導き出した作品であり、難病奇病に苦しむ病人に対する医療の基盤になっている。


【 「縁起」と「温、湿、柔」による弁証法 】
以上をまとめたい。1,「縁起」と「温、湿、柔」によって「YES と NO」を検証・判断・結論 ⇒ 2,「縁起」を育てる⇒1,「縁起」と「温、湿、柔」によって「YES と NO」を検証・判断・結論 ⇒ 2,「縁起」を育てる。こうした反復を続ける。以上のような営為(えいい)によって私達にどんな「道しるべ」がもたらされるのか?皆さんにも取り組んでいただけると幸いです。楽しみにしたい。以上のような「手法」をもって、いよいよ本論です。


(1)『古事記』と『日本書紀』をお勧めしたい。できれば『続日本紀』(しょくにほんぎ)も。
いずれも、戦後日本ではないがしろにされながらも、今も生きている問題の書です。上記の書に対する様々な論評があり、皆さんにも様々な見解や好みもあろう。しかし、最も問題すべきは、こんにちの殆どの日本人が読んでいないであろう事である。『古事記』と『日本書紀』を全編読んだ人は1%にも満たないであろう。日本に生まれた日本人ならば、一度は読むべき本でありましょう。あらゆる事象に言えることだが、自分の様々な見解や好みを一旦封印して、(?)にして検証する事です。

怖いのは、『古事記』や『日本書紀』についての学者や作家の論評に触れて、それでもって「事足れり」として済まして読もうとしない事である。中には、『古事記』、『日本書紀』と言っただけで目くじらを立てて拒否する人がいたが、その人に、全編を読んだことがあるかを尋ねると、「神話にすぎず、読む値打ちがない」という返事であった。自国の神話をかくも激しく拒否する民族がいるであろうか?そういう私も実は、上記の3書を全編読んだのは60歳の時である。日本人を弱体化させる為に、7,7000冊もの本を禁書にして焼き払ったというGHQの占領政策のせいにするのはたやすいが、反省したい。(『広辞苑』には『古事記』を「日本最古の歴史書」、『日本書紀』を「わが国最古の勅撰(ちょくせん:天子によって選ばれた)の正史」と明記されてある)。

ここで注目したいのは、紀元前に一万年余も続いたとされる縄文文化である。近年、縄文時代からの見直しを通して、誇りある日本の再建を図ろうとする動きがみられる。これからの大きな課題で、避けることができないテーマに「神道の問題」がある。私は、神道に若い時から何度かぶつかったが、清潔で情緒的癒しあれど、その真髄が「モヤー?」としてつかめず、その都度、妙な挫折感を味わったものです。「祓いたまえ、浄めたまえ!」でもって全てをくくり流してしまう・・・

神道は、自然の営みの万象に神を感じとろうとする「汎神論」であるが、「汎神論」だけならまだしも、天皇が横たわり、歴史的人物も多数入り込み、とりわけ明治時代に、天皇を頂点にする国家神道が加わった故の混乱と悲劇があった。神道には元来、体系化した教義や戒律がないので、理知的に理解・納得しょうとする事に無理があり、別な認識による理解が求められてありましょう。

『万葉集』や『古今和歌集』に流れている、恐らくはこんにちの私達日本人にも流れている「日本人の強い情緒性」は、同じく理知的理解の及ぶものではないとしても、双方に流れているであろう宗教性に注目したい。なかなかのテーマで難しそうであるが、ここで風景を一変。『ゴッホの手紙』(岩波文庫、上中下)に注目したい。

【 ゴッホにみる日本と自然宗教 】

日本の浮世絵を見たゴッホの驚きと喜びは大変なものであった。ゴッホの日本への憧れはやまず、日本へ来る代わりに、日本に似た光景を持つと思った南仏のアルルに移住し、弟や知人に多数の手紙を発信。こんにちの日本に住まう私達に届いているのは幸運である。『ゴッホの手紙』には、突飛な出来事はないが、素直で不思議と魅かれて飽きがない。私達日本人が気づかずにいた日本讃美が頻繁に出て来る。ここで、日本の自然道と宗教性の再検討を図りたい。

「僕は葡萄を植え付けた素敵な赤い土地を目にした。背景の山はかすかにリラ色なんだ。雪と同じように明るい空へ聳える白い峰の雪景は、まるで日本人が描く冬景色のようだ」。これは、ゴッホ(1853ー1890享年37自殺)がフランスのアルルに到着した時の弟・テオドルへの第一報である。その6信後には「まるで日本に来たようだ」と述べている。彼は、日本に強い憧れを持っていて、日本へ来たがっていたが叶わずに、日本に似た景観を持つと思ったフランスのアルルに移住したのである。ゴッホの日本への思い入れは尋常ではなく、“日本”がテオドルへの手紙に頻繁に出てくる。特に、北斎への思い入れには強いものがあった。

「黄に紫に咲き乱れる花を見ては「日本の夢」と言い、石炭船の浮かんだローヌ川を見ては「北斎の精髄」と言い、西北風さえ吹かなければ「アルルは日本のように麗しいだろう」と言った」。「将来、日本人が日本でした事を、この美しい土地でやる芸術家がほかにも現れて来るであろう。その先鞭をつけるのも悪くはない・・・ここの自然がいつまでも好きな事は今後も変わるまい。それはまるで日本美術のようなもので、一度好きになると決して飽きない」とも述べている(448信)。

更に、トルストイの『我が宗教』の読後、弟のテオドルへの手紙に述べている。           「日本の芸術を研究していると、賢者でもあり、哲学者でもあり、しかも才気煥発(さいきかんぱつ)の一人の人間が見えて来る。今日、彼はどういう生き方をしているか──地球と月との距離を研究しているか。ビスマルクの外交政策を研究しているか。そんな事ではない。彼はただ、草の葉の形を調べているのだよ。しかし、この一枚の草の葉から、やがて全ての植物を描く道が開かれる。それから季節を、田園の広い風景を、動物を、人間を。彼の生活は、こうして過ぎて行く。しかし、全てをやるには人生は短すぎる。自ら花となって、自然のままに生きている単純な日本人たちが、僕たちに教えるものは、実際、宗教と言ってもいいではないか。

君が日本の芸術を研究するなら、もっと陽気に、もっと幸福にならなければだめだ。僕らは、紋切り型の世間の仕事や教育を捨てて、自然に帰らなければだめだ・・・僕はその制作のうちに持っている極度の清潔を羨望する」。「決して冗漫なところもないし、性急なところもない。彼らの製作は、呼吸のように単純だ。まるで服のボタンをかけるとでもいう具合に、わずかばかりの筆使いで、いつも苦もなく形を描きあげる。ああ僕も、いつかはそんな具合に描けるようにならねばならぬ。この仕事でこの冬いっぱいは潰れるだろう」(第542信)。

長い引用になったが、興味深い内容が散見する。(『我が宗教』は、国家権力と癒着して堕落していた当時のロシア正教の批判をしながら、キリスト教の原点に立ち返ろうとするもので、「トルストイ運動」の基盤になり、その教えに基づく共同体として「トルストイ村」がシベリアに出来たという経緯もある)。ゴッホが、この書を評価しながらもキリスト教にはそれ以上は踏み込まずに、「日本の芸術」について、まるで日本に暮らしているかのように、生き生きと論評している事に注目したい。この論評について小林秀雄は、「そこには、日本人に関する勝手な夢想があって、これが、彼が憎む現代文明と強い対照をなしていた事もまた重要である」(小林秀雄『ゴッホの手紙』新潮社)。と述べているが、「日本人に関する勝手な夢想があって」では片づける事が出来ない気迫と真実性があるのではなかろうか。麦畑』の前でひざまずいたという小林自らの衝撃は何であったのか?アルルを日本に見立てて、パリからアルルに移住した直後の弟テオドルへの第1報に日本人を称賛し、その後も、手紙の中で何度も感動を持って日本について語ったゴッホの感性と眼識と魂識(こんしき:造語、魂による認識)は何であったのか?

「「色彩のオーケストレーション」に苦労するゴッホに、日本の版画の色彩の単純率直なハーモニーがいつも聞こえている」とも小林は述べているが、只事ではない。「僕はまたワーグナーに関する論文を読んだ──音楽に於ける愛というもので・・・全く絵画にもあてはまるものだ」(542信)。「僕は絵の中で音楽のように何か人を慰めるものを語りたい。僕は男や女で何か永遠なものを描きたい。永遠なあるもの──昔は後光がその象徴であったが、我々は輝きそのものによって、我々の色彩の振動によってこれを求るのだ (531信)。

ゴッホの絵画と音楽とのつながり以上に大事なのは、宗教とのつながりである。ゴッホの父と祖父が牧師で、自分も牧師になろうとしたが、貧しい人々への常軌を逸した献身──自分が来ている服を上げてしまうなど──が周囲とのあつれきを生み、自分が希望した唯一の職業から追放されている。「画家の魂と聖者の魂との不思議な混合は、彼の生涯を通して見られる」という小林の指摘は正しい。ゴッホ自らが「僕の持っている二重性、僧侶でもあり、画家でもあるという性質がなかったら、とうの昔に完全に狂気状態になっていただろう。だが、たとえそうはなっても、強迫症になるとは思わない。僕は感情が興奮すると、永遠性とか永遠のものという考えに誘われるからだ」(第556信)と手紙で告白している通りである。

という事は、小林のいう「画家の魂と聖者の魂との不思議な混合」は、ゴッホにとっては「不思議」ではなく彼そのものであった。27歳から37歳までのわずか10年間に2000枚もの絵(デッサン含む)を描いたゴッホの仕事は、2日に1枚以上のペースになるが、私の知人である画家が言うには、人間業ではないという。その爆発的エネルギーは“永遠”に通じる彼なりの(自然)宗教に根ざしたものであったと言えよう。ゴッホの有名な『ひまわり』は、アルルの強烈な陽ざしをいっぱいに浴びたエネルギーに満ちている。アルルの太陽がひまわりに出会い、ゴッホによって「命あふれる交響曲」になったのである。

日本の国旗は「日の丸」である(1870制定)。聖徳太子が遣隋使に託した文書以来、自国を「日出ずる国」とする考え方があり、赤い「日の丸」は日の出の太陽を象徴する。紅白は日本の伝統色で、めでたいものとされており、赤は博愛と活力を、白は神聖と純潔を意味するといわれている(ウィキぺディア 2022,5,5)。ゴッホの『ひまわり』を日章旗に直接的に関連づける事は慎まねばならないが、日章旗の太陽とゴッホの大自然への燃えたぎる情熱は、原初的な熱い心情に於いては結びつくものがあろう。

ゴッホは言う──「困難な仕事をすることが、僕にとってはよい事なのだ。それにはしかし、恐ろしい必要を感じる。思い切って言おう。それは宗教だ。僕は夜になると星を描きに外に出る。そしてそういう絵に、僕らの仲間の生きた人間たちの一群を描き入れる事を常に夢想しているのだ」(第544信)。
「恐ろしい必要を感じる宗教」の、ここで言う彼の宗教とはどんな宗教であろうか──「彼は形而上学に興味を持っていなかったし、キリスト教には早くから幻滅していた」と小林はいう(小林秀雄『ゴッホの手紙』新潮社))。

キリストにならいて心身を投げ打って努力したにもかかわらず牧師の道を断たれた彼には、キリスト教は遠くなっていた。ベルナール宛の第8信 (‘88年6月)には、「キリストだけが、いかなる芸術家よりも芸術家として生きた。大理石と粘土と色彩とを軽蔑して、生きた肉体で仕事した」とある(『ゴッホの手紙』(上)岩波書店1955)。ここでの“キリスト(救い主)”は、しかし、万人にとっての「救い主、キリスト」ではなく、「芸術家としてのキリスト」であり、その後の弟テオドルへの膨大な手紙にはキリストについての記述は全く見られない。ここに、祖父からの3代目の牧師になってまで敬虔なキリスト教徒であろうとした故の「キリスト教疲れ?」によるゴッホの強い「自然への回帰」を私には感じる。

彼が求めた宗教がキリスト教でないとすればイスラム教や仏教が考えられるが、『ゴッホの手紙』の中には、イスラム教との縁が見当たらず、仏陀に対する敬愛の記述は見られるが、深いつながりはない。彼が描いた『糸杉』、『星月夜』、『嵐の前の野』等から察するに、彼が求めていた宗教は自然宗教であったとみなしてよさそうである。「自ら花となって、自然のままに生きている単純な日本人たちが僕たちに教えるものは、実際、宗教と言ってもいいではないか」(第542信)。これは重要である。ここでの「宗教」が、日本の宗教の特定されたものではないにしても──日本の宗教の特定は、当のゴッホには無用であったろうし手紙には見かけない──日本の版画に、彼が求めた「大自然のダイナミックな、しかも、さりげない、極めて原初的・健康なエネルギーの発露」を発見し、そこに彼なりの宗教性を見た事は確かである。 「ギリシャ人と日本人が、別の星の中でその輝かしい流派の仕事を続けていると考えるのは魅力的だ。ギリシャ人や日本人が好きだ」と言う文面もある(511信542信)

次に、レオナルド・ダ・ヴィンチの「自然道」を検討したい。                  
<自然> (『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫1958)。                      「自然は自己の法則を破らない」。「自然は、経験の中にいまだかつて存在したことのない無限の理法に満ち満ちている」。「自然の中には理法なき結果は何一つ存在しない。理法を理解せよ。そうすればおまえの経験は必要でない」。「自然は、自己の中に渾然と生きている自己の法則によって強制される」。「よい文学はよい自然人から生まれる。しかして結果より原因の方がより称賛すべきものである以上、自然さのない立派な学者より文学を知らぬよい自然人の方を称賛すべきであろう」。「人間の天才は種々の発明をし、さまざまな道具で同じ目的に応じたとはいえ、それは自然よりも美しく容易かつ簡単な発明をすることは絶対にないであろう。なぜなら自然の発明の中には何一つ過不足がないからである」。

以上の<自然>は、レオナルド・ダ・ヴィンチ(伊1452~1519享年67)の箴言(しんげん:教訓)である。自然から学ぼうとする自然哲学の醍醐味がある。ここにも彼の絵画にも農民が出ていないのが残念であるが、自然に寄り添う自然人の称賛があり、自然から学びとろうとする素直な自然哲学に基づく自然科学者としてのダ・ヴィンチの息づかいがある。『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』には「救い主・イエス」が全く登場しないのが興味深い。

日本のわずか150年前の江戸時代後期に於ける農民の人口比率が85%であったという事から推測するに、その前の時代に於ける農民の人口比率はもっと高く、90%は占めていたと思われる。彼らの生活は、年貢米の供出を気にしながらも、お日様を仰ぎ、家族や隣人と共に土を耕し、季節と人生の節目の様々な行事を通して自然神と佛に感謝するといったものであったようである。そこには、「自然の子」である人の道としての「自然道」があったといえよう。

江戸時代の特に百姓の日常の生の生活に触れたいものです。何を支えに、何を喜びとして、何に怒り、悲しんだのか?江戸時代の百姓というと貧しく暗いイメージがつきまとうが、果たして本当か?北斎や広重に見られる人は町民が多いようで百姓は少ない。勉強不足のせいか、百姓をじかに捉えた文学や絵画が見あたらずに困っています。皆さんお知らせ下さい。

ゴッホやダ・ヴィンチのほかの「ヒポクラテス学派」の医、『黄帝内経素門霊枢』の医、安藤昌益の「自然真営道」とその医にも、根底には自然からの学びによって生きんとする自然道があった。自然道といえどもしかし、夢物語ではなくさまざまな苦難があったに違いない。それにもかかわらず、『万葉集』や『古今和歌集』のような情緒豊かな作品が1,000年以上も昔に我が日本に生まれた事は驚きである。『万葉集』や『古今和歌集』の自然で素直な情感の発露には、現代の私達が失った「生命の彩(いろどり)」がある。鈴木大拙、安藤昌益といった諸氏は重視していないが。

【「ことば」の「事の葉」と「事の端」の奥義 】                     

こで又、話題を変えて「ことば」について検討したい。宗教性の探究に、ことばの問題は欠かせない。                       
 (ア) ことばには大別して2種ある。自我で固めた「我」が相対する相手を「それ」として会う中での「我とそれ」の「我のことば」があり、全人的・宇宙的「我」が相対する相手を敬い「汝」として出会う「我と汝」の「我のことば」の2種類がある。ことばを単に「伝達の手段・道具」と捉えるのが前者で──これは便宜上大事で、この傾向が益々強まっているが、「全人的・宇宙的出会いによる「汝」のことば」がないと、我々の存在の奥底と神秘は開かれない。実は、我々の生活・仕事・学び等の全てにこの2種のことばが混じり合っていて様々な“心の綾”が示されている。(→本稿(8))。

(イ) 私達には、ことばの限界と虚しさの教えと共に“ことば”の「事の端(は)」と「事の葉(は)」の奥義が伝わっている。『万葉集』に「万(多く)の言の葉を集めたもの」とする説がある。『古今和歌集』(913年)の冒頭には「やまと歌は人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける」とあり、同書の「序 紀 淑望」には、「和歌は、その根を心の地につけ、その花を詞の林に開くもの」とある。

“心”とは「人の人や事物に対する応答」である。人間の出会いに於いて応答しようとする心によって、出来事の「事の一端」を現すものとしての「事端」(ことは)としての「言葉」に成り得る。「事(こと)の端(はし)」が「言の葉」に成り得る。ある現象がその形として現れる「事(こと)」には、二つの次元がある。「無限・無数の関係の次元」と「現実の現象」の次元の二つである。「無数・無限の関係の次元」は関係の次元なので「ことば」にならない「無言語の次元」である。

ここで「無数・無限の関係の次元」の無言語の「出来事の事(こと)の端(は)」が⇒この世に具現・現実化して形になった現象を⇒人の心が読み取る事によって「言葉」に成り得る。本来は無言語の「事」が、人によって有言語の「事」に成り「言葉」に成る。これが、言霊(ことだま)の本質でありましょう。「言葉」には又、「言葉」に成るものと「言葉」に成らないものの2種がある。日常会話、書類、詩歌や論文などの言語による言語文化と絵画や音楽、彫刻や陶器、建築、墓、史跡等に見られるところの言語によらない非言語文化がある。非言語文化と言語文化は異なるように思われがちだが、両者が「無数・無限の関係の出来事」の事(こと)を基盤にしている点で同質と言えよう。非言語文化のすそ野は広く奥行きも深い。私達に最も身近な料理も非言語文化に含まれよう。身近な音楽にも、有言語の歌と無言語のメロディの2種がある。交響曲のスケールとハーモニーの奥行きには凄みがある。音楽の霊は ”音霊(おんだま)” と言えよう。

非言語の次元と有言語の妙なる関係の探究には、『老子』の冒頭の「幽玄(ゆうげん)の教え」を思わせるものがあり、「永遠の美」に通じる魅力もある。古代ギリシャの “mimesis”(ミーメーシス:「本質の模倣・再現」、アリストテレスの『詩学』)の美学もおもしろそうである。“mimesis”は、レオナルドダヴィンチやミケランジェロ芸術の根幹であった。日本の伝統芸能・工芸の教えに「守、破、離」がある。師匠からの学びの段階が「守」、その段階を経た後の突破が「破」で、独自の道を歩む段階が「離」である。人類有史数千年の中には、「素晴らしい宝」がたくさんある。華やかな近代科学・技術に踊らされる事なく、健やかに在(あ)りたいものである。現代の華やかな近代科学・技術の時代にこそ、人類有史数千年の「素晴らしい文化」との真剣な出会いが求められてありましょう。

(ウ) 「出来事」の “事” は無常(常でない)であり、ダイナミックな生命と創造が秘められてある。
(ェ) “言葉”は本来、 “出来事” の “事” を指し示す「案内人」である。しかし、多くの場合、多くの人はこの次元にまでは及んでいない。ここまで達せずとも生きてはいけるからである。ここで「言葉の読み取り」が2種に分かれる。「言葉の本源である ”事” に向かう読み取り」と「表現されたことばの表面的理解と利用の道」の2種である。こるとばを単に「ことばはコミュニケーションの手段である」という言説は後者で、時に英語などの外国語習得の際に見られるケースである。よって、私達の人生には「事の読み取りをする生き方」と「事の読み取りをしない便宜上の生き方」の2種の機会とコースが与えられてある。「言葉の本源である”事”に向かう道」には永遠性と宗教性、そして芸術性がある。「ことばをコミュニケーションの手段とする道」には利便性があるが、永遠性と宗教性、そして芸術性は望めない。私達の日常生活は、両者がからみ合っていて、その比率の違いによって人生が大まかに分類される。この妙を充分に識(し)って獲得した知は智恵であり、反対は知識と言えましょう。

(ォ) 有言語の “言葉” には又、全人的な「出会いの間」に人が住まう只中に、天空から降り注がれる “真言” が生まれ事あり。この真言が、人を蘇生・変革させる事がある事も伝わっている。
(カ) さまざまな出来事の “事” にこそ究極の美と真理が秘められてあり、この “事” に仕えることが “仕事” に成る。”稼ぎ” は、生活に必要な物の獲得であり仕事とは異なるが、「稼ぐ事」に「仕事」を見い出せれば幸福でありましょう。この仕事には “愛” がある。「究極の美と真理」に懸命に仕え奉仕せんとする “愛” がある。時に、命を投げ打つ事のある “愛” がある。「真理の女神の微笑み」には、架空の産物ではないものがある。以上のような「ことばの秘密」の解明も、「私達の存在の開明の武器」になりましょう。

聖徳太子が約1,400年前に説いた17条憲法には、神道と儒教の他に仏教が入っている。それも、第3条の「天皇のことばを重んじる事」の前の第2条に「あつく仏法僧をうやまうべし」として、仏教を高く評価、前面に打ち出してある。これは、太子の生命を賭けた、日本の歴史、政治、精神の一大革命であったに違いない。この後、神仏混合の絶妙な日本独自の宗教が、少なくともほんの150年前の明治維新迄の1,200年余生き延びたのである。太子は、日本神道の感性と情緒に流れやすい弱点を仏教によって補い、かつ仏教の理知的で難解な教義を神道によって和らげて「強さと美しさを併せ持つ強靭な日本」をつくろうとしたのでありましょう。

※ 神道との宗教的対決を挑んだ代表作として、『霊性的日本』、『霊性的日本の建設』(鈴木大拙全集第8、9巻岩波書店)をあげたい。

※日本の宗教研究の案内人として山折哲雄さんの著書がユニーク。

※自然道としての神道を力説された『日本の宗教、本当は何がすごいのか』(田中英道、育鵬社)には、「目からうろこが落ちるもの」がある。田中英道さんの縄文時代からの日本の歴史の見直しには一目を置くべきであろう。

※古事記研究の古典として忘れてならない名著に、本居宣長(もとおりのりなが1730‐1801)さんの『古事記伝』がある(岩波文庫全4巻)。35年をかけて完成されたもので、日本には古来から伝わる独自の「やまとごころ」があるとして、儒教と仏教を批判している。聖徳太子の神仏混合(融合)の批判も見られ、明治の国家神道への糸口にもなったようです。「やまとごころ」を強調するあまり、1,000年余にわたって根を張った儒教と仏教を一方的に排除せんとするところに問題あり。神道、儒教、仏教の融和を図らんとした聖徳太子とは対照的である。                                   

※西洋に追いつけ・追い越せの時代の間只中にあって、日本文化の神髄を世界に知らしめんとした著に『茶の本』(岡倉天心、岩波文庫)がある。忘れてはならない名著でありましょう。

※ 『葉隠れ』(岩波文庫)も興味深い。「武士道とは死ぬことと見つけたり」が有名だが、誤解が多い点に注意したい。この本来の意味は次のようなものである。死の覚悟を不断に持つことによって、自らの生きる理由を見つめ直し「職分を落ち度なく全うするべきである」と説く。武士として恥をかかず、又人間として有意義に生きるために、死ぬ覚悟が不可欠と主張しているのである。

よって『葉隠』は死を礼讃しているのではなく、むしろ人生観を説いたものである。真の恋愛についても述べられてある。

江戸時代中期に肥前佐賀に生まれた作品である。「死を先取りした生き方」は、M・ハイデガーの『存在と時間』を想起させるものがある。

※「共同幻想」を基点に集団や国家を論じた異色の作品として『共同幻想論』(吉本隆明)がある。貨幣経済は貨幣価値が基盤になっているが、この価値には「共同幻想」が絡んでいよう。カントやベルグソン、ハイデガーを悩ませた時間論にも、2,000年にわたって西洋の歴史と文化を支えてきたキリスト教やプラトニズムにも・・・

私達に最も身近で最もハマりやすい幻想に「幸福」がある。幸福をネタにする詐欺師も多い。「飯の種」にしている占い師も多い。男女の愛も幻想が伴うでしょう。しかしながら、種々の物事を何でもかんでも「それは幻想だ」として探究せずに知ったかぶりをする態度は避けたい。こうした課題に真剣にぶつかる人といい加減な人とでは人間的に「天と地」ほどの違いが出るものです。本書は難解だが、「憂国の士」は一読すべきでありましょう。

(2)次は『聖書』
イエス誕生以前の古い約束の書である『旧約聖書』とイエス誕以後の『新約聖書』の双方の全編の一読は必要かもしれない。「キリスト教信仰を持つか持たないかの検討や議論」の前に。但し、聖書を手に取るのが初めて方にとっては、大分(だいぶん)なもので、全編の一読は無理。『旧約聖書』の「創世記」と「出エジプト記」、そして『新約聖書』の「マタイ伝」の3篇の熟読をお薦めします。

キリスト教に対して無関心な或いは拒否する日本人が多いが、問題と思う。2000年にわたって西洋の歴史と文化を支えてきた『聖書』を読まずに西洋を語る資格があるか? 明治以降、日本が西洋から懸命に取り込んだ、法学、経済学、文学、哲学、音楽、医学等は勿論の事、科学も、キリスト教抜きにはあり得ない。こんにち、キリスト教信者が、全世界の約1/4を占めるというのも無視できまい。韓国のキリスト教信者が韓国の総人口の何と3割を占めていて、キリスト教が韓国社会に大きな力を持っているという のも驚きである。(韓国の仏教信者はキリスト教信者の約半数)(Google2024.10.7)。 

日本のこんにちのキリスト教信者は約100万人1%弱で、明治時代後期から増えていない。敬虔なクリスチャンであったマッカーサーが、日本のキリスト教化にやっきになったが成功しなかったというのも興味深く、この事を手がかりにする日本人の特性や宗教観の探究も可能でありましょう。ともあれしかし、『聖書』の一読は必要でしょう。

こんにちの「イスラエル・イラン戦争」に於ける悲劇も、根底には、旧約聖書の『出エジプト記』に見られるところの3000年余のイスラエル人の苦難の歴史がからんでおり、私達日本人の常識的倫理観では理解出来ない、或いは即断してはならない側面がある事も念頭におくべきである。祝福すべき1948年5月14日の「イスラエル建国日」の翌日に中東戦争が勃発。7回もの紛争後に今回の戦争である。第2次世界大戦における日本の戦いがわずか4年であった事を比較しただけでも私達の常識的倫理観では理解出来ないものがありそうです。無論、私はイスラエル派ではなくイスラエルを擁護する意図はない。歴史の事象を正しく理解するには、歴史のとりわけ宗教の学びが求められてあるという事を強調したい。

資本主義の発展にもキリスト教が関与。マックス・ウェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がある。アメリカ独立宣言には神への賛辞が3度あり、アメリカ大統領の宣誓式では、牧師の前で大統領候補が机の上にある聖書に左手をのせ、右手を天にかざして神と人民に宣誓。オバマ大統領のかの有名な演説直後に、牧師による20分にも及ぶ「神への感謝と讃美」があった。アメリカの建国と歴史がキリスト教抜きにはあり得ず、アメリカの大統領選挙もキリスト教がからんでいます。

(3)『コーラン』の音読のお勧め。
ネットでは、「イスラム教では 、アラビア語で書かれた『コーラン』を神の言葉と神聖化し、他の言語に翻訳することを禁止しています。コーランの章句一つひとつに重層的な意味が含まれていて、それを正しく表現できるのはアラビア語だけとされているからです。そのため、現在でもコーランを他言語に翻訳した書物は存在しないのです」とある。(Google.2024.10.4)。

しかし、幸いなるかな!! 我が日本では翻訳本が手に入る。それも、安価な岩波文庫で。戦後の様々な中近東問題は、ロシアやアメリカが深く関わっていて複雑で深刻であるが、その理解にはイスラム教を母体とする様々なイスラム宗派の大まかな理解が求められよう。その理解に、『コーラン』の一読は欠かせまい。

その際は、黙読より音読がよいようである。『コーラン』は本来、黙読するものではなく、唱えるものであるとされているからである。黙読より音読の方が記憶に残る。音読は、心身への浸透がよいようである。仏教の経典の唱和にも酔いしれるほどの独特の美がある。しかし、この美しさに酔いしれる誘惑のせいか、一般庶民の仏教理解がすっかり置き去りにされている現実があろう。葬式や法事での坊さんのお経の読誦は、リズミカルで心地よいが私達にはその内容がチンプンカンプン。これは、異常ではなかろうか?読誦は現代語訳にすべきである。その際のリズムづくりには困難があろうが一般庶民の仏教理解には欠かせまい。プラトンの『国家』が思い出される。詩歌のことばの正しい理解よりも、詩歌の情緒性の魔力に引きずり込まれる危険性の問題である。

日本では、『コーラン』は親しみがなく、読んだ事がある人は珍しく、「名著10選」としてのお勧めは意外に思われそうだが、世界のイスラム教信者は約19億人で、キリスト教信者(23億人)に次ぐ信者数を誇る大宗教である事は無視出来ない。キリスト教信者が減少傾向にある一方、イスラム信者は増えているという事にも注目すべきでありましょう。『コーラン』は、聖書よりも教えが優しい。

新約聖書に見られるイエスの──「地上に平和をもたらす為に私が来たと思うな。平和でなく、つるぎを投げ込む為にきたのだ。私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせる為である。そして家の者が、その人の敵となるであろう。私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない・・・自分の命を得ている者はそれを失い、私の為に自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(マタイ伝10章34 〜39)。或いは又、──「一粒の麦、死ななければそのままである。しかし、死ねば豊かに実り、永遠の命を得る」(ヨハネ伝12章24)──といった常軌を逸した厳しい教えは見られない。

上記のイエスの教えは、誤解を避けようとする為か、通常、教会の説教では避けられているが、これこそがキリスト教の本質である。ここに、道徳・倫理を超えた宗教的実存が、キリスト教においてはキリスト教の実存が示されてある。簡潔にまとめると、万物の私達の創造主である神と共に生きて神のもとに還り(帰り)なさいという教えである。
人の「自我の欲望」は大変強く果てがない。高度に発達して止まない知的能力がからんでいる欲望なので、頑強で放ってはおけない。こんにちの私達が、事もあろうか、1万3千発もの原子爆弾を抱えた状況で生きている現実がある。イエスの激しいことばの真意は、自滅を予感させる強烈な人の自我との真っ向からの闘いを通した「自我の破壊と新生」にある。

臨済禅に似たような教えがある。「佛に会ったら佛を殺し、聖者にあったら聖者を殺し、親に会ったら親を殺せ」がある(『臨済録』)。これは、イエスの教えに同じく、「殺しの推奨」ではない。社会的な地位や財や名誉等は勿論、親子の血筋や世俗的関係の全てを破壊。「仏教の究極の目標とされ救いであるとされている佛」をも破壊して、「本来の自分の姿(相)」に気付くようにという教えである。イエスの「創造主である神への復帰」に対する、臨済禅師の「悟りへの気づき」という到達点の違いはあるが、いずれも通常の道徳・倫理を超えた厳しい宗教的試練の段階──「自我の破壊による新生の誕生」──がある点では共通している。この「自我の破壊と新生の誕生」に、人知を超えたenergyが生まれる事があり、ここに宗教の永遠性と底知れぬ魅力がある。

ここには語り尽くせないが、例えば、『雨ニモマケズ』で有名な宮沢賢治の実家は浄土真宗であったが、彼は日蓮宗に改宗。わずか5ヶ月で満州国を建国した天才軍人、石原莞爾(かんじ)に同じ日蓮宗の国柱会の熱烈な会員であった。『雨ニモマケズ』をはじめとする多数の作品と彼の生活と事業の根底に、仏教の日蓮宗があった事は注目したい。単に、彼独自の感性や能力の産物ではないのです。

宗教の教えについてでなく、「宗教と歴史・政治の関係」についての探究書として『宗教で読み解く世界史』(宇山卓榮著、日本実業出版社)をあげたい。複雑なイスラム宗派の対立にも踏み込んでいる良書である。近年の宗教問題に、多数の論客による多様な視点を持って切り込んだ書に『クライテリオン「政治と宗教」を問う』(啓文社書房)がある。切れ味がよい良書である。イスラム教の深い理解を求める際の案内書としては、井筒俊彦さんの『意識と本質』(岩波文庫)、『イスラーム文化』(岩波文庫)等の名著がある。

(4)プラトンの『国家』のお勧め。
理想政治(社会)を目指しての「国家と個人のありよう」を宇宙的自然の秩序と小宇宙的な人間の魂の秩序を対比しながらトコトン探究する壮大な対話である。平和、自由、正義、民主主義等の現代的テーマに鋭く迫っている名著である。全編が対話形式なので読みやすい。最大の大事は、「それぞれの対話に読者である自分(私、あなた)を投げ入れて対話する事が可能である事」である。この対話を通しての思索による新たな哲理の誕生が可能である。恐らくは、著者であるプラトンの最大の願いがここにあったと思われる。『国家』が、アメリカの大学が選ぶ「古典トップ10選」に選ばれているという。さもあらん!である。特に、「大志を抱いている方(あなた)」には、必携の名著である。

(5)『老子』のお薦め。
この書にあたるのに欠かせない書に、『論語』がある。『老子』は、アンチ孔子であるからである。 孔子と老子の出生年代が曖昧で混乱することがある事に注意したい。名前からして、老子が先輩のように思っている方が多い。私が保有する中国製の2種類の『孔子』のDVDも、孔子が先輩である老子を先生として仰いで、老子を尋ねる場面が描かれてあるが、実は逆である。有名な歴史書とされる司馬遷の『史記』における二人の出生年代が曖昧なので、余計混乱しているようである。(『広辞苑』には、孔子(前551~479)とあるが、老子の出生年代は載っていない)。『老子』は、孔子の思想に対する強いアンチ(anti-: 反抗)から生まれた作品である。従って、老子は孔子の後に生まれたか同年代とすべきで、従って又『老子』は『論語』の後に生まれたとすべきでありましょう。これを踏まえないと脈絡がおかしくなり、『老子』の「無為自然」の教えは宙に浮く。

孔子の『論語』に注意したいのは、その文面に自然との触れ合いとその学びが見当たらない事である。孔子没後の儒教の四書の『大学』に「格物致知」(かくぶつちち:物にいたりて知に到る)があるが、ここでの学びの姿勢は自然科学的なもので、『老子』の人間の有り様を自然から問う存在論的なものではない。2,500年も前の春秋戦国時代といわれた時代に、意識内では既に自然から離れた都市生活がなされていたようで、ここにも、老子や荘子の孔子・儒教に対する強い反抗があったようである。

中国の春秋戦国時代に生まれた名著として、『孫子』と『韓非子』を忘れたくない。双方とも有名な「兵法書」であるが、『韓非子』は話題が豊富で文脈の流れにリズムと切れがある。『韓非子』をプラトンの『国家』になぞらえて、東洋の『国家』と言えるかもしれない。『韓非子』は実用的で、プラトンの『国家』は哲学的であるが。それにつけても、2,500年も前の中国に、かくも卓越した多様な思想家が生まれたのは驚きである。いずれも苦難の時代に生まれたものである事に留意すべきでしょう。

2,500年も昔のほぼ同じ時代に『旧約聖書』に偉大な預言者エレミヤが現れ、その後にイエスが出現。インドには仏陀が、中国には孔子、老子等の現代にも強い影響力を持つ多数の偉人が出現した事に注目した哲学者にK・ヤスパース氏がいる。ほぼ同時代に農業が発達し、集落が拡大してやがて都市化するにつれて、人間や集落のあつれきが深刻化したためと思われるが、2,500年前の教えが今も伝わっているという事に、驚きと感謝を覚える。又、人間の本性はさほど変わっていない事を示しているであろう事に安ど感を覚えるものである。もし、人間の本性が現在大きく変わっているならば、こうした古典の学びは意味を失い、「温故知新」も不要になる。そうなると、過去に学びながら将来を照らさんとするアプローチが役に立たなくなり、こんにちの危機に対する手立てを恐らくは完全に見失うでありましょう。


しかしながら同時に又、2,000年も昔の古典が現代にも通じるという事は、こんにちの私達の人間的成長が停止していて、人間性の深まりと人格の高まりが見られないという見方も可能であり、大いなる反省が求められてあるのかもしれない。

(6)『黄帝内経素問霊枢(おうていないけいそもんれいすう)』と『ヒポクラテス全集』のお薦め。
 私達の人生には勿論、歴史的にも無視できないテーマに、病気とその闘い・克服がある。この意味で、東西両医学の両雄ともいえる『黄帝内経素問霊枢』と『ヒポクラテス全集』をお薦めである。この双方が、2000年超の時空を超えて極東に住む日本の私達に届いてある事は驚きである。『黄帝内経素問霊枢』(柴崎保三訳全24巻が詳しい)は、約2,200年前に中国に生まれたものだが中国で紛失。優れた写本が京都の仁和寺で発見されて日本の国宝に認定されている。

『ヒポクラテス全集』(ギリシャ)は、『広辞苑』ほどの大分なもので、当初は羊皮や牛皮に書き留められたのであろうが 、火災や盗難や虫食い、焚書(ふんしょ)等の難を逃れて2,500年。私達に確かに伝わってある事はやはり驚きである。邦訳された『アリストテレス全集』(全18巻)も私の書棚にあるが、上記のいずれも邦訳されてある。いかほどの人の努力によって伝わったものか?驚きであり感謝である。過去の叡智と努力に尊敬をはらいながら、問題があればその問題点を改良しつつ、次世代によりよきものを伝えていく・・・これこそが、私達に与えられた使命であり、私達の現実存在(実存)の一つの正しい有り様(ありよう)でありましょう。但し、『黄帝内経素問霊枢』と『ヒポクラテス全集』の読破は医療従事者や特別な興味を持つ方にお薦めで、その他の方にはお薦めできない。双方とも大分なもので、陳腐(ちんぷ)な論述もかなりある。但し、次の2点にはご留意願いたい。

a. 吸い玉療法
これは、吸角療法(きゅうかくりょうほう)ともカッピング療法とも呼ばれるもので、約2,500前のヒポクラテスによって推奨されて盛んに行われていた。『ヒポクラテス全集』に20カ所にわたって記録されている。ヒポクラテスの時代には、この 吸い玉療法と焼灼療法(しょうしゃくりょうほう)が主流をなしていた。焼灼療法とは、焼き火ばしのようなもので患部を焼いて、オリーブオイルや葡萄酒等で湿布する療法で、ヒポクラテスはこの療法を至高の療法と位置づけていて、「焼却療法で治らない病気は諦めるように」とさえ述べている。焼却療法は、イタリアのアッシジの聖フランシスコ(映画 ”Brother Sun Sister Moon ” は美しく、お薦め)も晩年、眼病治療に受けており、南北戦争にも行われていた。

吸い玉療法は、ヒポクラテス以降は薬物療法に取って代わられて医療の主流から姿を消した。医者は薬物療法に専念し、この薬物療法がヨーロッパとアメリカに伝わり、明治以降に日本に入ったのである。外科的処置が必要な病気は理容に委ねた歴史があり、こんにちの床屋に見られる「赤、青、白」のネオンサインはそのなごりを示すもので、赤は動脈血で青は静脈血を白は包帯を表しているという。ヨーロッパの伝統には、手仕事や肉体労働を軽蔑する傾向があり、手仕事を必要とする 吸い玉療法は軽視されたようである。しかし、 吸い玉療法が後代にヨーロッパとアメリカに正しく伝わっていたならば、こんにちの世界の医療が大きく異なっていたはずである。私ども45年間、吸い玉療法に付き合っているが、その効果は抜群で、鍼灸、電気療法との併用には更なる卓越した恐るべき効能がある。私どもが、こうした医療を全世界に伝えんとするゆえんがある。

特筆すべきは、 吸い玉療法に関するきちんとした文献が『ヒポクラテス全集』を除くと、全世界に残っていない事である。 吸い玉療法は一般に、東洋医学であるとされているが、中国、韓国、日本にも文献資料が見つかっていない。日本の国宝である『黄帝内経素問霊枢』にものっていない。中国、韓国、日本の数ある時代劇にも、鍼灸の療法はよく見かけるが 吸い玉療法は全く見かけない。私の手元にある10冊もの医学史にも見かけず、稀に見かけても「吸い玉療法がある」の1行で終わり。『ヒポクラテス全集』の 吸い玉療法に関する20件もの記録が完全に無視されてある。『医学史』に於ける『ヒポクラテス全集』に関する論稿にも 吸い玉療法に関する記述は皆無である。医学史を発表した著者は医学者が多いが、 吸い玉療法の内容と効能についての無知のゆえか、或いは何らかの偏見のゆえか、いずれにせよヒポクラテスの吸玉療法については触れていない。ヒポクラテスに関する似たような論稿が多く、ヒポクラテスが最高の療法とした焼灼療法についても触れていない『医学史』が多い事からして、ひょっとしたら『ヒポクラテス全集』を読まずに論稿しているのかもしれない。先人の論稿をひとひねりして。もしそうならば、医学は他の学問と異なり、とりわけ生命に関わる大事なので反省と誠実さを求めたい。

b.お灸につて
お灸は熱い上に、痕が残り易いので、一般にイメージが悪く遠慮されがちであるが、その効能には凄いものがある。蚊やブヨによる虫刺されのかゆみは、米粒ほどのもぐさの2粒のお灸でもってかゆみが止まる。蜂刺されもその痛みが、数粒のお灸によって取れる。種々の神経痛にも非常に有効である。鍼と吸い玉療法との併用療法も素晴らしい。ここでの詳述は無理であるが、癌やエイズにも期待が持てる。

2008年に2人のイギリス人鍼灸師によって設立されたイギリスのチャリティ団体「モクサアフリカ」の活動に注目したい。「日本の直接灸が結核治療の補助的役割を努めることができるのか」という研究と、「お灸の普及活動」を行っている。日本人医師の原志面太郎(お灸博士)さんの、お灸の効能についての論文と実績を基盤にしているという。上記の「日本の直接灸が結核治療の補助的役割を努めることができるのかという研究」は、「日本の直接灸が結核治療の主要な役割を努めることができるその仕組みの研究」にしたいものである。

お灸は、ヒポクラテスに同じく火を用いた焼灼療法であるが、ヒポクラテスの恐らくは「焼きひばし」を用いた乱暴なものではない点に留意したい。『ヒポクラテス全集』には、焼灼療法の具体的内容についての論述が見当たらないのが残念で推測するほかないが――当時の現地の人々にとっては、焼灼療法が常識化されていて説明が不要であったのかもしれない――「焼きひばし」や「焼きごて」で患部を焼いたようである。現代西洋医学では見られない。(「焼きごて」は、日本では、近年は木製品や和菓子に焼き印をつける道具に用いられるくらいだが、アイロンの普及前には衣服の「しわ伸ばし」に用いられていた)。ヒポクラテスの焼灼療法を復元するには改良が必要です。

(7)広島、長崎の「原爆記念碑」の写真掲示のお薦め
「白光治療院」の当院のロビーと治療室に、長崎の原爆記念碑ともいうべき「平和の像」の写真が飾られてある。40年前に、広島と長崎を訪れ、花束を添えて撮らしていただいたものである。医療の現場に原爆記念碑の写真は、見た事も聞いた事もありませんね?これには、二つの意味がある。一つは、長い人類の歴史の中で、原爆の出現は決定的な意味を持つ事。もう一つは、現代の病院医療の根底にある「近代科学の数量的思考法」との対峙とその超克(ちょうこく:乗り越え)である。

それにつけても、当院の新築開業以来の37年間、当院の玄関を開けると真正面に見える長崎の「平和の像」について尋ねる人は、一人もいなかった。単なる「飾り物」と見られているのかも・・・全人類の絶滅を意味する核の脅威は、過去の人類の歴史になかったもので、私達の戦争に対する認識を大きく改めねばならなくなりました。

こんにちの教育学、心理学に強く見られる「自己確立」、「自己表現」、「自己実現」の浅薄さが気になる。肝腎な「自己の徹底探究」がなされていない次元のものであり底が浅い。  新ニーサにおける株式投資やFX、仮想通貨等の投資話しも個人の利益追求ばかりが目立つ。投資や占いも「全体の幸福」が欠如し易い。個人の幸福追求ばかりが目立つ。「経世済民」(世をととのえて民救う)を忘れた「経済」の危機。社会全体の福祉を忘れた個人的利益追求の経済活動は危険である。そもそも、一人では経済活動が成り立つはずがないでありましょう。                                                      

8)『我と汝』(M・ブーバー著、岩波文庫)のお薦め
同書の邦訳に『孤独と愛』~我と汝の問題~(創文社)あり。こちらのほうが訳者の息吹を感じる。              この作品は、1923年に発表されたもので、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の「ヨーロッパの終焉」が真剣に問われた時代に生まれた苦闘の作品である。この作品に注目したいのは、西洋一般に伝統的に見られたところの事物を「単独に個別的に捉える強い傾向」(我とそれ)に反論、「関係」の中で捉えようとした事(我と汝)である。オーストリア生まれのユダヤ人である著者のブーバーは、ユダヤ教・キリスト教のヘブライズムとギリシャ哲学のヘレニズムの双方の文化に通じていた故の卓見と思われます。

『我と汝』によると、「人は世界に対して二つの態度をとり、それによって、世界は二つになる」という。一つは「我と汝」の関係の世界であり、他方は「我とそれ」の関係の世界である。ここでは、哲学的・宗教的論述を避けて案内に留めたく、次の2例と私の体験をあげたい。私の娘が3歳の頃の事、ある中年の女性が、娘を横に堀ごたつに座って絵本の読み聞かせを始めた。ところが、その読み聞かせが棒読みで、ただ読んでいるだけ・・娘はそのおばちゃんの顔をけげんそうにじっと見つめていた。「我とそれ」の「我」を示す好例です。

internet は、語源的にinter‐net である。「間の網」である。internetを通して「無数の関係の間」の場に立ってその関係を築かんとする「我(私)」は、「我と汝」の「我」であり、internetを自分の楽しみや欲望を満たすためのツールとする「我」は、「我とそれ」の「我」である。

私事で恐縮だが、15歳から人生の探究に苦しみ、仏教の「空、無」にぶち当たった。宗教学を専攻していた大学では軽く学んだものの、僧侶の直接的指導がないままでの探究で大学卒後も苦しんだ。そこで出会ったのが『我と汝』。ようやく開かれて救われた。30歳であった。「色即是空、空即是色」というからには、そのように認識する「我」が必ずいるわけで、「色即是空、空即是色」の「色」を「我とそれ」とし、「空」を「我と汝」とする手法によって開かれた。皆様の手がかりになれば幸いです。

『我と汝』は難解といわれるが、それは、通常一般の本の読書法によるからである。この本の内容を遠くに見やって読む読み方では理解不能です。「我と汝」の「我」と「我とそれ」の「我」の双方の「我」に自己(あなた)を投げ入れると理解しやすくなる。つまり、『我と汝』の執筆者であるブーバーになって読んでいく、或いは執筆していこうとする手法です。この小論の当初の<はじめに>の「道しるべと手法」(イ)の読書法は、こうした経緯から生まれたものです。

*ブーバーは、「我と汝」のその関係を通して・貫いて「永遠の汝」との出会いが始まるという。この「永遠の汝」はユダヤ教のヤーウェの神であるが、この次元になると仏教と別れる。
               
現代と未来を語るには、科学のとりわけ近代科学・技術との対峙(たいじ)を避ける事は出来ない。こんにち、AI技術への期待と困惑が広まっているが、科学技術による利便性、そして人間性の置き去りと疎外の問題は無視できない。ブーバーの『我と汝』にも、根底に近代科学・技術との対峙・対決がある。M・ハイデガーの多数の著書にも「近代科学との対峙・対決」が強く見られる。お薦めは、『放下』と『世界像の時代』。(いずれも理想社)。2021年に、110人もの日本人研究者による『ハイデガー事典』(昭和堂)が刊行された。日本哲学界の記録に残る作品です。

【 M. ハイデガーの日本への書簡 】
1966年、ハイデガーは、鈴木大拙・西谷啓治監修の講座『禅』第8巻(筑摩書房)に「思索の事柄を定めることへの問い」を寄稿した。その中で、慎重に次のように語る。「“開け”についての徹底した思索を通って、我々はある一つの境域の内に到達し、その境域は、変換されたヨーロッパ的思惟を東アジア的思索との実り多き決定的解明の内へともたらすことを、多分可能にするでありましょう。その解明は、人間的な現存在を極度に技術的に算定し操作することによる脅威に対して、人間の本質を救い出すという労苦に満ちた仕事の手助けになり得るかもしれません」(『哲学・思想を考える』魚住孝至 放送大学教育振興会2018 p,226)。

ここには、存在の本質である「有即無、無即有」の「無の地平」が隠蔽(いんぺい)されたままに、「有の地平」のみで「巨大な有の文化」を築き上げる土台となった「ヨーロッパ的思惟(しい)」──これは、あらゆる存在を計算し、利便性へと導く強烈な武器であるが──の深い反省と超克は、東アジアに伝わる「無の地平の教え」によって可能となるであろう事が暗示されてある。「有と無」のテーマは巨大なもので、ここでは医学に限定したい。現代の医学のエビデンス(実証)の要とされるEBMにも端的に示されてある事に触れたい。EBMの土台には、DBT・RCT(無作為な操作を含む統計的根拠)があるが、これぞまさしく「存在の有の地平」における「近代の科学的数量的思考法」の産物であり、「存在の無の地平」を隠蔽(いんぺい)したもので、かけがえのない一人の存在の本質の救済にはなりえない代物である。私達の最も身近な痛みやしびれや倦怠感はつかめず、根本的治療法がない。こんにちの「コロナ禍騒動」における悲劇も、「近代の科学的数量的思考法」の欠陥を雄弁に物語っていよう。

上記のテーマは甚大深刻であるがゆえに、ここでの更なる論稿を避けようと思ったが、次の【近代の「科学的数量的思考法」の問題】は避けがたいので論稿する事にした。殆ど無反省に「科学万歳!」の教育を受けてきた皆さんには、かなりの違和感があるかもしれませんが、お付き合い願いたい。この相克と超克がないと、深刻な現代に於ける私達の「開け」がもたらされないからです。

【 近代の「科学的数量的思考法」の問題 】
近代科学・技術の誕生と発展には、目を見張るものがある。巨大な物質文明が開かれ、81億人もの人が暮らせる時代になった。炊飯器、洗濯機、冷蔵庫、車、スマホなどのいずれもが近代科学・技術の発展のお陰である。しかし、大きな課題が残された。

近代科学は、vorstellen(独)の事物を自己のvor (前に) – stellen(立てる)を土台にしている。この表象によって近代科学知が生まれる。即ち、相対する事物を科学する者の前に立てて、科学者がその事物を観察、調査、評価する思考法である( M.ハイデガー 小島威夫、アルムブルスター『技術論』理想社S,40 p,6。M.ハイデガー 桑木 務『世界像の時代』理想社 1962 p,37)。科学者の自我が主体になる自我とは、私達の「五官(眼耳鼻舌皮膚)」の感覚器官が外の世界に触れて、感じて思って、考えを形成する主体である。

この思考法に於ける関係は、事物のあるがままに(let it be)ではなく、又、科学者と事物との相互関係ではなく、「科学者の自我が主体になって事物へと向かう一方的関係」である。事物の利用と応用には非常に便利であるが、その事物の本来の尊厳を失う恐れがある。「人と事物」の関係に生まれるはずの、かの原初的・本来的な「おそれ、おどろき、おののき、感動、感謝」といった大事が全て吹き飛んでしまう恐れがある。

「科学者の自我が主体になって事物へと向かう一方的関係」は、こんにち、常識化されている。ある事件に対するTVでのコメンテーターは「ああ思う、こう思う」の連発で終わり。それで「私はこのように関わって、こうする」といったコメントが少ないのである。ネットでの裏情報も溢れているが、情報を流すだけが多い。「正しい情報の下に正しい判断を」というスタンスには、その情報収集の多大な努力があり、その情報は正しいものが多いと思うが、果たして本当に正しいかどうかの検証となると容易ではない。連日の沢山の情報にまともにつき合ったなら、何もできなくなってしまう。情報発信者が深刻な問題を提起しても、それで、肝腎な発信者当人は「何をどうしょうとしているのか?」が不明。「正確な情報提供が私の役目で、判断は皆さんご自由に」というスタンスは、もっともらしいが無責任の感が残る。

こうした無責任は、われわれの日常会話にも溢れている。諸事件について得意げに語る人がいるが、それでは具体的にどのように関わり、事件の改善を図るのかのコメントはない。迷惑なのは、具体案のない「いい子ぶりっ子」のすこぶる優しい同情心である。医療界にも「いい子ぶりっ子」と「無責任」が溢れている。コロナ禍に於ける専門家のコメントは、注意喚起とワクチン接種の薦めだけ。ワクチンの副作用に対する責任はみられない。ワクチン接種反対の医療者も、「では、ワクチン接種に代わる確かなものは?」となると怪しい。近・現代の医療と医学を痛烈に批判する医療者も似たりである。


こうした無責任の根底には、近代科学の思考法が深くからんでいると私は見ている。近代科学の思考法の関係が相互依存ではなく、一方的であるからである。おまけに、近代科学的思考法による真理の導きには、次に述べる「価値のカテゴリー(範疇)排除」の重大な問題がからんでいる。これは、「善悪や愛」などの我々の基本的道義と心情をも排除する可能性のある真理なので、深刻である。いっそう無責任になっていくのは必定である。「(私が)言う事は言われてあり、願う事は願われてあり、求める事は求められてある」のであるが、こうした事に、益々鈍感になり、気づきにくくなっているのである。

また、我々の存在、肉体を持った動物的存在である我々の存在は、事物を「事物のあるがままに留め置く事」を許さない。食べたり飲んだり、何かの利用にする。我々が生きんが為(死なんが為)である。人の欲望は強いもので、「相互関係」を忘れて「一方的関係」になりやすいものである。「利用の関係」が浸透し、拡大。我々の人間関係までも「利用の関係」に収斂(収束)されて、「生きている事の感動」のない溜息だらけの人生に陥る危険性がある。神絶対中心の世界観から人間中心の世界観への一大転換の苦闘から生まれた近代西欧のHumanism(人間主義)の時代苦がある。

科学する者が相対する事物を自分の前に立て、その事物を観察、調査、評価する際は、客観的真理を得るために科学者 の「一切の価値観を排除すべきである」という。これは、ごもっともである。各人がそれぞれの善悪・好悪の価値判断によって導き出した結論に客観的普遍性を求める事はできないからである。一切の価値判断なしで得た事実が、万人によって同じ条件下で実験し、同じ結果を得る事ができれば再現性・普遍性が確保されて科学的真理とみなされる。
  
深刻な問題を含むこうした科学はしかし、一朝一夕にできたものではなく、「長年にわたる、血を流し或いは身を焼かれて示した苦難の道がある」というベルツの訴えは重く受け止めねばならない(ベルツ 『ベルツの日記』岩波文庫)。ガリレオ裁判の誤りと迫害は有名だが、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪したのが1992年、ガリレオ(1564~1642)の死去から実に350年後のことである。

ここで、近代の「科学的数量的思考法」の問題についての具体的例証として、再び、ガリレオをとりあげたい。ガリレオは、「地球は数字で書かれた聖書である」として地球の動きを数学で表現する事に成功(ガリレオ『天文対話』岩波文庫「冒頭」)。人類史に残る偉業を成し遂げた。しかし、その結果、地球が「冷たく味気ない物理学的地球」と化し、温もりのある自然との生き生きとした出会いを失う事になった。「我々が生きている生活世界は、喜怒哀楽に彩られた世界であって、数量的物理的世界ではない。ガリレオは、数量的発見者の天才であると同時に、数式の衣で自然と我々の生活を覆い隠した天才でもある」と主張したフッサールの警告にも重みがある(E.フッサール『世界の名著51』「ヨーロッパ学問の危機と先見的現象学」中央公論社1977 p,414)。

この世には、古来、多くの俳人や歌人にうたわれた月があり、山川草木がある。ミレーの『晩鐘』(1859)は異国の過去の憧憬であろうか?ゴッホの『百姓靴』、『じゃがいもを食う百姓』、そして『種をまく人』は、何を訴えているのであろうか?数千年にわたって、お日様を拝みながら懸命に土に生きた無数の人々がいて、学ぶべきものがある。彼らの特に80代の女性の中には、足がよぼよぼ、痴呆になっても鍬をかかえて田畑に行こうとする人がいる。家族の方々は心配でやめさせようとする。もっともではあるが、「彼女たちの家族と土に生きた人生」に対する「畏敬の念」は持ちたいものである。数量化された冷徹な近代科学的認識による真理と懸命に土に生きる人生とには、大きなギャップが潜んでいる。このギャップは大事にしたい。

ここで、<近代の科学的数量的思考法の問題> をまとめたい。
(a) 研究対象とする事物を自己の前に立てて、自己の研究目的に沿うように設定した場での観察・実験による真理が果たして客観的真理といえるのか?
(b) 科学する者は、人の一切の価値や善悪等のカテゴリー(範疇)を排除すべき。客観的真理を得るために。しかし、「一切の価値観排除」というが、上記 (a) には既に、当初から研究者の価値観が入り込み、研究対象の相手の「あるがままの在り様」が覆い隠されてはいまいか?又、少額で楽しむ事ができるアマチュアの趣味はともあれ、一銭にもならない研究に多額の投資をする科学研究が現実にあり得るか?


(c) 価値排除の科学は、「人間とその問題」を置き去りにする恐れがある。人間の価値観を排除する科学者が、つまり、「善悪や愛などの価値を持たない者」が“人間”といえるのか?果たして社会生活を営むことが出来るのか?出来るとすればいったいどのように出来るのか?

(d) 科学者とは、科学する時間の間の科学者であって、日常の社会生活では科学者ではなく生活者に戻る事は可能かもしれない。となると、科学者は、科学者と生活者の二重の人格を持って生きるという事になるが──でなければ、科学者は人間の社会生活を送ることが出来なくなる──こうした二重人格的な「離れ業」を科学者はどのように成しているのか?
(e) 科学する者の心の奥底に、或いは背後に、悪徳を潜ませて、科学という「お飾りの面」をかぶって科学する科学者は、悪魔にもなりうるのでは?一切のカテゴリーに関係しないはずの科学者が、名誉欲や金銭欲にとりつかれて暴走する事件は珍しくない。
(f) 日本では明治時代以降、「技術立国日本、科学万歳!科学技術万歳!」と国を挙げて叫んできた。「科学的に捉えて正しく認識するように!」もしばしば見聞きするが、カテゴリーに関係しない科学知が膨大なものになり、全世界を覆っているこんにち、我々の生活にまで深く浸透している。この知識の獲得に追われる生活は味気なく、人間の精神的成長を阻害する恐れがある。人間の価値のカテゴリーにからむ愛情、情緒、正義、道義などがすっかり消される、或いは置き去りにされる恐れがあるからである。「より立派な人間に成ろうとする」人間的、或いは人格的訓練と成長はいったいどこでどのようになされるのであろうか?

(g) カテゴリー(範疇)に関係しない科学知の獲得によって、技術の発展を飛躍。1万3千発もの「原子爆弾」までもつくってしまったという深刻な問題を抱える事になった。
(h) しかしながら、「価値観や道義のカテゴリー排除」による近代科学知は、短時間に普及し易い。この科学知が我々の生活や軍事に利便をもたらす技術と結びつくと、科学知が更に普及し易くなる。やっかいなのは、科学知とその技術の獲得によって、人間として賢くなって人間的成長もなされていると錯覚しがちになる事である。分り易い例として、スマホのチェーン店の若い女性の店員の中に、「こんなことも分らないの?」といった態度で年配者の客に接している光景を見かけることがある。スマホのスムーズな操作は現代では大事で、そのテクニックの獲得は能力の一つであろう。しかし、我々の人間としての善悪、道義、愛憎、喜怒哀楽には直結しない「利便」の次元での能力である事は認識せねばならない。この事のわきまえがないと、「人間とその問題」が一層置き去りにされる恐れが増す。


(i) 反対の「価値観や道義のカテゴリー」が絡む生活信条や思想、信仰などの人間の問題の理解と受容には、困難が伴い、時間がかかり、闘いが生じる事もある。生涯をかけた「悟り」(信仰)といったものは個人的な目覚めであり、伝達が困難で悟ったにしても、死によってその「悟り」(信仰)がそこで中断してしまうという宿命がある。「科学」と「人間とその問題」のギャップが更に拡大し、両者の闘いに疲れると、いきおい「価値観や道義のカテゴリー」に絡む事柄を避けるようになり、人間としての訓練・練磨の機会を失い、人間と文化の成長までもがストップ・停滞してしまう危険性が出てこよう。

(j) 科学知を医学の場面に移すと、近代科学の表象的客観的知(ひょうしょうてききゃっかんてきち)によっては捉える事ができない痛みやしびれ、耳鳴りや難聴、倦怠感といった主観的・個人的トラブルがそっくり残される事になるのは必定(ひつじょう)である。


(k) とりわけ、「人間のカテゴリーを排除する近代科学」と「愛を基盤にする医療のギャップの問題」は深刻である。身近な例でいうと、「電子カルテ」が分り易い。「あの病院の医者は、私の顔を見ないでパソコンばかり見ている」といった不満をよく耳にする。「人間のカテゴリーを排除する近代科学」と「愛を基盤にする医療のギャップの問題」といった問題を根底から問う医療者を見かけない。医療者の多くが近代科学の思考法の虜になったまま。中には疑問を感じ、近・現代医を批判する医療者が出ているが、克服のすべは持っていない事が多い。哲学・宗教に疎(うと)いためである。
(l) 「人間のカテゴリーの完全排除の医療」はあり得まい。あるとすれば「悪魔の医療」になる。しかし、人の生命を銭儲けの道具にせんとする傾向も強まっているこんにち、「人間のカテゴリー」が怪しくなり、科学とその技術の発達に伴う「人間の置きざり」の問題がいっそう浸透・加速。不気味なニヒリズムが誕生、浸透・拡大し、今や全世界を覆っている。医療に於ける虚無主義も深刻である。

(m) 「価値範疇の排除」は、愛情、情緒、正義、道義のどのあらゆるものの価値の否定につながるもので、ニヒリズム(虚無主義)を生む恐ろしい作業である。「科学の時代」といわれる現代、ニヒリズムの網をくぐった真理と知識にがんじがらめにされてある我々のあり様が問われてある。好むと好まざるに関わらず、現代の我々は、日々、ニヒリズムの脅威にさらされている。近代科学の思考法の、以上の「自我が主体となる表象(vorstellen)による一方的認識」と「価値範疇の切り捨て」の二つの問題は、今世紀の一大問題である。いずれもしかし、困難な問題で一般的社会問題にはなりにくい。
(n) しかしながら、我々は、近代の科学的数量的思考法と現代の科学技術の恩恵を受けている。この論文作成にはパソコンを使用し、科学技術の粋を集めた車や電車なしの生活は殆ど不可能になっている。従って、近代の数量的科学的思考法とその科学技術を認めながらも否定し、否定しながらも肯定していかねばならないという非常に厳しい営為が求められてある。これまた困難な問題で、一般的な社会問題にはなりにくい。従って野放図になりやすい。

(o)「車いすの天才物理学者」として知られるS.ホーキング(1942~2018)が、2017年6月20日付けの“WIRED”UK版で、「人類の未来」について次のように述べている。「地球はさまざまな分野からの脅威を受けており、私にとって楽観的になるのは難しいのです。ほかの太陽系を探索すべき時がきています。外へと広がることこそが、我々を救う唯一の手段です。地球に留まることは絶滅の要因となるので、私は人類が地球を離れる必要があると確信します」(JAMES TEMPERTON SCIENCE 2018. 03. 14)。


「地球がさまざまな分野からの脅威を受けている」は要注意で、このネットでのコメントに、次がある。「ホーキングは以前から気候変動や伝染病、人口増加のすべてが我々の生存に大きな脅威をもたらすと予測してきた。‘16年11月、彼は人類が今後1,000年以内に新たな惑星を見つける必要があると述べた。そして、‛17年5月に、彼はその予測を100年まで短縮した」。「地球のさまざまな分野からの脅威」がいまいち明確でなくコメントしにくいが、これらの脅威が外部からの強烈な脅威でなく、「伝染病や人口増加」などの脅威ならば、地球脱出は必要ないと私は考える。「脅威」があるならば、その克服に向かって努力すべきで、その努力をしないで他の惑星に住もうとするのは、無責任で虫がよすぎる。ここで二つの問題を提起したい。

(p) ホーキングの「ブラックホールに関する数々の偉大なる発見」は、あくまでも「事物を対象化して認識する近代の数量的科学的思考法」に基づくもので、最も大事な我々自身の「人間の探究」がすっぽり抜け落ちている事の問題は重大である。これをせずに、これまでお世話になった地球を使い果たし、都合が悪く危険になったので別な惑星に住んで、というのは罰当たりであろう。気候変動や伝染病、人口増加の問題は、我々自身に関わっている問題で、その克服の努力にこそ我々人間の真価が問われてあり、真面目がある。これを避けて新しい惑星に住んでみたところで、同じ結果を生み、更なる問題を引き起こす事になろう。人間がまき散らした「宇宙のゴミ」も問題化している。


(q)なるほど、ホーキングの近代科学による発見は驚嘆に値しょう。しかし、本当に凄いのは、「大宇宙の営み」である。人間の科学的アプローチによる発見は、「大宇宙の営み」あってのものである。反対ではない。これを忘れると逆さまになり、道を誤り、科学者とその信奉者は「悪魔の使い」になりがちである。ノーベル賞受賞を讃美する報道は多いが、その受賞の元になっている大自然を讃美する報道はない。

(r) いずれにせよ、こんにち、こうしたテーマについての真剣な議論が求められてある状況は、否定できなくなっていることは確かなようである。こうした深刻な状況は、ニヒリズム(虚無主義)をいっそう深め、その超克の道は更に険しくなっている。ニヒリズムが真剣に日本のマスコミに取り上げられる事はなく、日常の話題になる事もないが、実は深刻である。近年、頻発している「相手は誰でもよかった。殺してみたかった」といった無情で悲惨な事件からの切り込みが端的で分かり易いと思う。

(s) ニヒリズムに取りつかれたニヒリストにとっての他者は“餌”である。
餌を求めて徘徊、餌を漁る事が至上命題であり、全てなのである。「他人を巻き沿いにせずに一人で死ね!」といったコメントをしばしば見かけるが、ニヒリストには通じない。餌をあさる事が全てなのである。本日、‘21,10,31、先日の小田急線事件に続いて、京王線で無差別障害事件が起こった。犯人が言った「殺すことが出来なかったのが残念!」と。「ニヒリズムは罪である」──50年前の西谷啓治教授のことばが重い。

( )”平等” と”人格” の問題                                     仏教は「人間の存在論」から万人の平等を説いて自国のヒンズー教と闘い(仏陀の愛弟子2人が撲殺されている)、キリスト教では「神の前」での万人の平等を説き、近代憲法では「法の下」での万人の平等を説いた。それぞれに長い苦闘の歴史があり含蓄が深い。しかし、平等でないもの、平等であってはならないものがある。それは「努力」と「人格」です。

福沢諭吉さんが『学問のすすめ』において「天は人の上に人をつくらず、人の下にひとをつくらず」と力強く打ち出した後に「では、なにゆえに人の差別が生まれるのか?」について、「それは、学問の努力をするかしないかによる」というのである。気を付けたいのは、その学問である。「読み書き算盤」に象徴されるようないわゆる「実学」、即ち即座に役立つ学問では底が浅くたいしたものじゃないのでは、という問いが生まれます。ホンモノの学問に徹すべきです。赤穂浪士の処罰に対して福沢おじちゃんは「厳に罰すべき」と『学問のすすめ』に表明されましたが、彼の学問の根源が問われてありましょう。実学重視の学問の限界を露呈した文言(もんごん)であった。努力とはいっても、その向かっている方向と内容が問題です。泥棒だって、詐欺師だって努力していましょう。

そこで問題は、「人格」です。人格の向上を目指す国の政策は聞いたことありませんね?教育ではどうでしょう?この人格の向上、これまた忘れていましたね?人格は平等ではありません。もし、平等ならば、善良なる市民や犠牲を払いながら懸命に「世のために努力している人」と詐欺が同じになり、区別がなくなりますね?「尊敬される立派な人間になろうという努力」も全て無価値になりますね?仏教やキリスト教、近代憲法で説く「平等」に、私達はいつのまにか洗脳され毒されてしまったのかもしれません。或いは、戦後GHQによる「日本人の骨抜き政策」にまんまとはめられてしまった向きもありましょう。こんにちの私達日本人の多くが、「尊敬する人物」を失い、「尊敬される人物になろう」という意識もなくしました。「尊敬する人物は?」という問いかけすらなくなってしまいました。私達の祖先にはたくさんの立派な人がいたに違いありません。そのおかげでこんにちの私達があるのですから。「人格の向上と不平等」は、大問題で声を大にして叫ぶべきテーマと思います。

(t) こんにち我々は、最も豊かな時代にあって、最も貧しくかつ最も危険な時代の真っ只中にある。この奇妙な悲劇はしかし、従来の人類が経験したものではない。近代科学・技術による豊かさに潜む人間性の破壊の問題は、自然災害や戦争といった「目に見える形あるもの」ではないので、マスコミで取り上げることはなく、一般に理解されにくく、それ故に深刻である。殆ど絶望的であるようにもみえる。

以上のような問題を超えていく道──それは、大変困難な道であるが、ヒントはある。従来の「有」の科学を認めながら、「無の全人的サイエンス(science)」を打ち出す事である。また、「ニヒリズムの超克」に命を張っている御仁(ごじん)が世界には、否、日本にもいる事も申し添えたい。

分り易い例としてここでは、日本の代表的作家をあげたい。明治時代の北村透谷、夏目漱石(1867ー1916)、芥川龍之介、太宰治等がニヒリズムと闘った。命を張って闘った。しかし、失敗。 なぜか?──それは、彼らに真剣な「近代科学との対決と闘い」が希薄であった為である。4人の中の漱石さんを除いた3人が自殺。漱石さんも若い時からの胃腸障害とうつ病に苦しみ、健やかな人生ではなかった。慢性下痢に苦しみ、脇においてある便座に腰かけるのに書生の手を借りねばならない状況で他界した。49歳であった。

16歳で日光の華厳の滝に身を投げた藤村 操(1886、明治19-1903北海道出身)の父は屯田銀行頭取で、中学を飛び級で卒業、旧制一高入学。東京帝国大学へまっしぐらの道が開かれていた大そう恵まれていた秀才であった。失恋が自殺の原因とする説や「夏目漱石に君の西洋文学の捉え方は間違っている」と指摘された為とする説があるが、そんなちゃちなものではなく、根底には近代西洋文明との闘いがあり、挫折したとみるべきでありましょう。日本が日清戦争(1894-1895)に勝ち、日露戦争(1904-1905)に向かう時代での悲劇であった。大国との戦争の勝利に沸く時代状況が、鋭敏な文学青年には耐えがたい絶望であったのでしょう。この絶望は彼一人の独善的なものではなく、明治の「時代苦」が深くからんでいたと思われる。彼のショッキングな投身自殺後、185名の青年が後追いしたという(ウイキぺデア2025.1.11)。彼に会う事が出来るのならば、是非とも会って語らいたいものである。

日本における40歳未満の死亡者のトップが自殺である事は見逃せない。先進諸国の中では最悪だという。近年の日本の自殺者は2万人強。かつての3.5万人(H.15)よりは減っているが、2万強を日割りすると約50。この豊かで平和な日本で?毎日50人、Ⅰ時間に2人が自ら命を絶っているのです。(事故死を自殺に含める国があるというが、日本の自殺者数は事故死を含んでいないので、事故死を含めると更に増える)。明治の「時代苦」が、150年を経た現代に通じていると私は捉えている。司馬遼太郎を始めとする「美化された虚構の歴史認識」に覆われた虚構の明治の歴史も超えねばなりません。「無」をないがしろにした近代科学・技術との対決をベースにしながら学問すべきです。

偏差値がどうの、大学がどうの、司法試験がどうのなどは大した問題じゃありません。これらはでき上がった知識のかき集めの記憶術であり、大したものじゃないのです。いや、難関大学の合格、入学。司法試験の合格などは当然の事。どうということじゃないのです。大事はその後の探究である。50年も昔の学歴を引っさげて人生の基盤にして誇っている御仁がいるが、よほどのお馬鹿さんである。歴史的にみてもたかだか150年のもの。ソクラテスおじちゃんも、イエス君も孔子、老子おじちゃんも偏差値や司法試験なんぞ関係しませんね?私達は、寝ぼけていました。こんなにも厳しい大変な時代にありながら、人生の本質探究を忘れがちでした。こんにち、高邁な精神を忘れて自己保身に走っている日本の政治家や官僚が批判されているが、日本人全体が個人主義に陥って、人間的スケール(器)が小さくなっているのが気になります。

( )科学・技術の習得が人格の向上につながるか?                      かつて重視された「老人の智恵」が消え失せ、「老人の智恵」ということばも聞こえなくなっている。近代科学・技術の圧倒的な利便性と経済性が、従来の「老人の知恵」を疎外・破壊しているようである。こんにち、パソコンやスマホが私達の生活に深く浸透し、多くの老人がついていけなくなっている。最も怖いのは、「科学技術の習得が人格の向上に直結している」と無意識のうちに何も考えずに理解している人が多いのでは?である。「今のこの場での土着性」を失い、根無し草のような人が増えている。インターネットの普及によって知識が増えて人間的スケールが大きくなると思いきや、逆に人間的スケール(器)が小さくなっているようである。より良い人間になろうという人間的成長の場と機会が、近代科学・技術の進歩・発展によってどのように確保されるのか?大きな課題です。これは長くなるので別紙に委ねたい。

(9)ネットの『ユーチューブ』による学びと探究のお薦め
以上のような古典の学びは私達の土台づくりに欠かせない。しかしながら、激動する現代社会にあっては、世界の情勢に無頓着ではおれない。現代の状況を知らずに現代に対処する事は出来ない。しかしながら又、情報過多に苦しみながらも誤報やデマを排除しながらホンモノを選ばなくてならない。情報操作の世論づくりに対する気づかいも求められてあり、情報操作による自らの判断基準の歪みにも注意せねばならない時代である。であればこそ尚の事、判断基準の土台づくりのためには、古典との出会いは欠かせない。こうした事を踏まえた上で、ネットのユーチューブに於ける下記の方々を紹介したい。

*藤井厳喜さん・・・アメリカを軸にした政治、経済の流れを歴史学、地政学、宗教学等を踏まえながら論述。世界情勢のスケールの大きな捉え方と的確さには定評がある。株式投資の根幹の学びにもなる。 

  
*西 悦夫さん・・・現代の問題に単刀直入にズバズバ切り込んでいて痛快である。                                       

*馬渕睦夫さん・・・新時代の幕開けを告げる話が聞こえてくる。預言者風であるが歴史的正確性が問われてありましょう。                

*伊藤 貫さん・・・アメリカ在住で、歴史と古典の学びから現代を見つめんとする姿勢が見られる。

*三橋貴明さん・・・彼に対するネット上の批判があるが、彼の国民全体の福祉に立った論述は高く評価したい。

*藤井 聰(そう)さん・・・土木工学からの独特の見方と論評がユニークである。『人を動かす「正論の捉え方』がる。『神なき時代の日本蘇生プラン』(宮台真司、藤井 聰著)もある。                               

この他にも、ユニークな方の論評をユーチューブで聴くことができるといういい時代になったといえよう。但し、本との出会いのようなどっしりした落ち着きがないという欠点があるが、それは、動画を保存しておいて反復するなり、そのユーチューバーの本があればそれを求めるなりの工夫で対処できよう。 改めて、internet 即ち、 inter(間)ー net(網) を考えながら学びたいものです。(尚、上記のユーチューブには有料もあります)。

上記の方々のコメントはいずれも素晴らしいが、大きな課題が残されてあります。それは、前述した「近代科学・技術の恐るべき進歩・発展と人間性の探究の問題」が希薄である事です。GHQによる「日本人の骨抜き政策の問題」や30年にわたって低迷する日本経済問題は頻繁に出て来るが、近代科学・技術による人間性の阻害・疎外の問題には触れていない。論者の多くがアメリカを基点にしている思想の持主であるという点でアメリカナイザーされている面があり、ヨーロッパの苦悩が希薄な感がある。アメリカは良くも悪くも歴史が浅く、「プラグマティズム(実用主義)」の強い国で「力と実用性」を重んじるお国柄。近代科学・技術による人間性の阻害・疎外の問題などは関心がうすいようで、これが日本にも影響していましょう。要注意です。日本は特に「日本は資源が乏しい国なので、科学・技術が大事」として、「科学万歳!」の風潮が明治以降、現在も流れているが、大変な危険性があります。

(10)『般若心経』のお薦め
『般若心経』は、『大般若経( 600巻)』の圧縮版ともいうべき最も有名な仏教経典で、日本では沢山出回っている。それぞれに様々な解釈が見られるが、文献学的に確かなものとして、岩波文庫の『般若心経・金剛般若経』(中村 元・紀野一義 訳注)をあげたい。この中の『金剛般若経』も興味深い。全編が、「私達は政治を志す事は出来ない。だから出来るのである」といった逆説の繰り返し。「AはBでない。故に、 AはBである」という伝統的論理学ではあり得ない論理で貫かれてある。これは、仏教の核心である「空の論理」を”空”という語を用いずに「空」を現した文脈によるものである。いわゆる「般若即非(はんにゃそくひ)の論理」である。「否定がそのままに肯定される」のである。

仏陀の悟りが”空”として最初に示されたのが、一般には、龍樹の『中論』(150年頃)といわれているので、『金剛般若経』は、『中論』の前の作品であると思われる。『般若心経』には、「色即是空、空即是色」として”空”が見られるが、『中論』(2C)の後の作品である。『般若心経』と『金剛般若経』の両者の学びは、空の理解の深まりに役立つであろう。

数ある『般若心経』の解説書の中で、群を抜いているものに、上述した岩波文庫の『般若心経・金剛般若経』の他に宮坂宥洪(ゆうこう)氏『真釈、般若心経』(角川ソフィア文庫)がある。注目点として次の2点を挙げたい。

a) 宮坂氏の主張によると、「般若波羅蜜多心」とは、一般に「智慧の完成の心(精髄)であり、これに向かって精進せよ」と解説されているが、本当は「悟れる者は般若波羅蜜多によっている」という事にある。大乗の菩薩たちは従来の伝承を見直し、釈迦の教えの真意がなんであったかを追究し、大胆にも釈迦を含めた佛の崇高な悟りの境地が、実は「般若波羅蜜多」によるものであると確信し、ここに「般若波羅蜜多」を高々と称揚(しょうよう)する一巻の教典「般若波羅蜜多心経」が誕生したというのです。「般若波羅蜜多心経」とは、一般に「智慧の完成の心(精髄)の書であり、これに向かって精進せよ」という教えはいい教えに違いないが、『般若心経』の起源の本当の由来は、釈迦牟尼仏陀(しゃかむにぶっだ:釈迦族出身の尊い覚者:本名はゴータマ・シッダルタ)入滅後の800年間の無数の菩薩(尊い仏道修行者)による「悟りの究極の境地(境位)の探究と確証」にあり、一巻の教典『般若心経』として遺(のこ)されたというのは驚きであり喜びです。

「人類の宝」ともいうべき『般若心経』が私達の身辺にあり、「いつでもどこでもたずさえて共に生きていけるこの幸運」に万歳‼である。「般若波羅蜜多心経」の真言を真言としてどこまで踏み込み、どこまで現実化・具現化していくか、私達が問われてあります。こんにちの困難な時代にあって。

b) 「涅槃(ねはん)」とは、「燃え盛る煩悩の火」ではなく「妨げのない自由な境地」。                            仏教の根幹をなす教えに「四法印」がある。かの有名な「一切皆苦」、「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂静」の教えです。仏道修行者の一大指針であり、悟りに向かっての懸命な努力をした無数の修行者の姿が目に浮かぶ。 詳しい論述はムリだが、ここで特筆したいのは、仏道修行の最後の究極の悟りの段階である「涅槃寂静」である。「涅槃寂静」とは、「煩悩の炎が吹き消された静かな悟りの世界」とされてきて、それを至極、当然と思ってきたと思います。ところが、宮沢氏は言うのです━━涅槃とは、「燃え盛る煩悩の火」などとは全く無関係で、「妨げのない自由な境地に入る事」であるというのです。空海も1200年も前に『般若心経秘鍵(ひけん)』に述べているという。エライ事になりました!

「妨げのない自由な境地に入る事」の「自由」とは如何なる自由か?西洋の J・S・ミル等に強く見られる社会的拘束や不平等の差別からの自由ではなく、「人間本来の存在論」に根ざした主体的自由である。前者は私達が日常生活で体験するもので、客観的に述べやすく又、理解されやすいが、後者の論稿は大変。自らの「生老病死」の問題解決は客観的には解決し得ない大問題です。この秘密が『般若心経』に説かれてある。仏教の「生老病死が空である」という究極の大胆な教えの「病気が空である」に切り込んだものが、私の病理観であり、『新しい医道の樹立に向かって』── 東西両医の哲学・宗教・科学の超克(ちょうこく)による「医の革命」の試み──であります。「「神の国」はあなた方の”間”にある」」(新約聖書ルカ伝17章)が想起せられる。


(11)聖徳太子17条憲法(604年)の熟読・熟考のお薦め。特に、第1条に有名な「和を以て貴しとなす」があるが、これを「縁起を以て貴しとなす」に出来まいか?私達の課題としたいがいかがでしょうか?私の破天荒な病理観とその医療・医学は、正に「仏教の縁起説」から生まれたものである。太子の17条憲法の第12条に役人に対する戒めがあるが、こんにちの日本国憲法の第17条に、国(役人)の不法行為による損害の賠償責任としての「国家賠償法」がある事は偶然かもしれないがおもしろい。太子の17条憲法の第17条:「独断でなく、多様な人との協議をして物事を決めよ」も素晴らしい。1400年前の憲法である!!
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【 悟り悟り(気づき)の3つの困難 】
我々が、万物が、無限・無数の縁起に拠って存在している事は再三述べた。この“縁起”が当然すぎて気づかれにくい上に、忘れられる宿命を持つ事も述べた。ここでは少し視点を変えて、「悟り」を基点にして、更に“縁起”の大事とその宿命について考察したい。古来、悟りを求めて求道に難儀した多くの修行者がいた。あまり問題にされてこなかったが、挫折した方もかなりいたようである。これには、三つの避けがたい困難があったようである。

( a ) 獲得知よりも困難な自己発見知                             我々の知には2種類ある。獲得知と発見知である。獲得知とは何らかの利用の目的を叶える為に知識を得ようとして得た知である。就職の為に外国語の習得を、何らかの技術を身につけて生活を便利に、一流大学に入るために猛勉強をする。といった他動詞的営みの知が獲得知で、対象となるものを獲得して我々の欲望を満たそうとする知で理解され易い。「我とそれ」の「我」の知である。対する発見知とは獲得する知ではなく、気づいていく、発見していく知である。但し、発見知にも2つあるから注意したい。

発見知には、近代科学知の表象(vorstellen(独))による発見知と悟りに向かう存在論的発見知(悟りの智)がある。前者は、人間のあり様に無関係な無規範の、相手に全人的には向き合っていない「我とそれ」の「我」による発見知である。vorstellenされ対象化された科学的発見知で理解され普及し易い。有効で便利であるからである。(価値規範排除の客観的発見知であるはずの科学知に、有効と利便の価値観が入っているという矛盾がある事の注意が必要であるが)。
対する存在論的発見智、即ち「我と汝」の相手に全人的に向き合わんとする「我」の発見知は、全く異なる。「我と汝」の「我」の智である。自己が関わる存在論的発見智であり、万物が、万事が「色即是空、空即是色」である事に明確に気づく智である。

「小鳥が空を飛び、一本の木にとまる」。この光景を見ている私がいる。そしてパソコンにこの光景を入力している。木にとまる小鳥が見える事、そのさえずりが聞こえる事、パソコンへの文字入力に5本の指が動いている事のリアリティに気づく智である。仮に、私の目が見えなくても、両目が見えなくても、或いは指が動かなくても、そのままに「色即是空、空即是色」である事を如実に気づく智である。とりわけ、こんにちの「利用と応用」を第一義とする科学・技術の時代に於ける「全人的自己が関わる存在論的発見智の探究」には困難が伴う。しかし、こんにち、最も求められてある根源智である。獲得知と存在論的発見智には、「獲得医療」と「排泄医療」に相当するものがある。

( b ) 苦労して気づき、悟ってみても「外観は全く変わらない事」のジレンマ。                    悟りとは、「リアルな気づきによる開け」にほかならない。悟りの深さのレベルは異なるにせよ、悟りは、覚りであり気づきである。それまで見えなかった事象の出自、即ち、事象の生まれの出どころの事(コト)に気づく事にほかならない。歩く事、ごはんを食べる事、語る事、学ぶ事、働く事、旅に出る事などの日常のあらゆる出来事の「事」が縁起として、事が事に成っているそのリアリティに気づく事にほかならない。人がこの気づきに達した時、叫ぶことがある──「ああっ!・・・」と。覚醒による誕生、「新生の瞬間」である。

ところで、「人が悟る前と後」の違いは、見る人が見るとすぐに分かると言われているが、一般の人には分からない。気づき悟った人の一挙手一投足、発する言葉の全てが違っているのだが、一般には理解されにくい。悟りの覚醒を知らない者に、悟りの覚醒を知った人の言動の理解は困難である事は当然である。悟った人についての科学的客観評価も困難である。外観は全く変わらないからである。とはいっても、わずかな悟りによっても、「言動に切れが出る」、「それまで苦労していた学業や仕事が難なく出来るようになる」といった現象は起こり得る。「悟りによる開け」によって、生命エネルギーが目覚めて高まり、眼識がクリアーに成り、眠っていた能力が開花する事があるからである。

何らかの宗教的修行によって霊が見えるようになる、透視ができるようになる、病人を治せるようになるといった超能力的特殊能力が身に付くこともある。しかしながら、こうした特殊能力を世間に誇大に示そうとしたり、或いは、超能力的特殊能力を身に着けることを宗教的修行の目的にすると道を誤る。かのオーム真理教の惨劇のように。しかしながら又、こうした特殊能力を示す事によって「宗教的真理」を示す方法がある事、目に見える具体的な何らかの特殊能力を示さないと納得・受容しない人が多数いる事も否めない事実である。肝腎なのは、「特殊能力による示威(見せつけ)」は、あくまで方便であって目的ではない事を心に深く刻み込み、忘れない事であろう。

( c ) 「縁起、空、無」を知らなくても生きていける人の恵みと悲劇の宿業。                    人は、空気や水や衣食住やら何やら、無数の縁起によって活かされて生きている。縁起がなければ、誰一人生きていけない。ところが、人は、縁起を全く知らなくても生きていける。実際、生きている。勉強も、仕事も、ゼニもうけも出来るというやっかいな問題がある。そっくり残されてある。この世に生を受け、やがて自我に目覚め、懸命に自我を拡大しながら自己保存に努め、それぞれの人生を歩む・・・といった人生の全てが、実は縁起の連続である。縁起こそが我々の基底であり母なのだが、この母を忘れて、自己保身にかまけやすいのが人の性であり、業のようである。

【 人類の悲劇の根本相とその超克 】                                     現在、我々の存在の元を成す「縁起、空、無」を我々が忘れることに対する法律的罰則はないが、存在論的、歴史的には大問題である。縁起、空、無に対する何の感謝も報恩もない人生が、或いは時代が、ずっと続く場合の「縁起、空、無の報復」はないものか? 或いは、我々の「自業自得による業罰」はないものであろうか?「縁起、空、無の報復」はともあれ、我々の「自業自得による業罰」は、こんにちの政治、経済、農業、教育等のあらゆる文化が避ける事のできない課題である。医も例外ではない。

医学と医療の「自業自得による業罰」の一例として、「塩の問題」を挙げたい。従来「塩分の摂りすぎは血圧を上げる」として耳にタコができるほどに注意されてきた。しかし、とんでもない問題を含んでいる。塩は古来、神事(しんじ)に欠かせないものであるが、その奥行きは深く、「塩の存在自体が神事である」といえるほどの凄さがある。塩についての論稿を試みようとすると、私の貧しい科学的知識によっても本にすると1冊では間に合わずに3冊分にもなりそうである。ここでは、簡潔に述べたい。

先ず、塩がないと私達は生きていけません。心臓も働けません。私達が身体を動かす時の電気信号として神経細胞を伝わっていくのだが、この働きをするのが塩の成分であるナトリウムイオンであるという。又、全身の60兆個もあるという細胞の浸透圧の調節にも塩が働いている。これだけでも凄い事ですね?次に、日常生活に於ける塩の話題に移します。20年ほど前の日本の年間の塩の消費量は約1000万トンでした。話をまとめやすいのでこのデータを基準にします。内訳は、全国の家庭用が約5%の50万t、味噌、醤油お菓子等の加工用が10%の100万tで、残りの85%の850万tは何でしょう?思いついたものを言って下さい・・・何と工業用です。ガラス、タイヤ等のゴム製品、冷蔵・冷凍に使われているフロンガス、冬場の高速道路の凍結防止、人工のダイヤモンド、除草剤、爆弾も作れるのです。Nacl(塩化ナトリウム)のNa (ナトリウム)』は激しい爆発力を持つので、爆弾やロケット燃料にもなります。他方、原子力発電所のタービンの熱さましにも欠かせないという。

余談ですが、昭和40年代に起きた過激派による三井・三菱ビル爆弾破壊事件の爆弾の原料は除草剤であった。若い数人のグループによる都内の安アパートの床をはがして地下に穴を掘っての爆弾づくりのシーンが映画にもなっている。この時に使われた除草剤がなんと私の近くの磐梯町の昭和電工製造のものであった。「岩塩が列車でもってドンドン搬入されて大量の除草剤をつくっていた。ビル爆弾事件直後に私服警官を含む大勢の警官が入って徹底した捜索がなされた」という。当時、除草剤をつくっていた社員の証言です。

塩の工業用の年間消費量が85%の850万トンであることも大変なもので、塩がなければ日本のみならず全世界の工業がストップしてしまう。私達の日常生活も出来なくなります。こんにちの塩の大事はこれにとどまらない。皆さんの生存に絶対に欠かせない水の消毒に使われている塩素も原料が塩。現代医療に欠かせない点滴の原料も塩。薬やワクチンも、塩がないと作ることができないのです!!

こうした恐ろしい力を持ち、私達の生命と生活、医療と工業の土台にもなっている塩の凄さをシッカと認識せずに、塩分摂取過剰による高血圧症だけを引き合いにして塩をワルモノにするとは何事ぞ!しかも、「降圧剤は生涯飲み続けよ」という医療はいかがなものか?塩がそんなにワルならば、点滴も薬もワクチンもストップすべきだあろう。塩と高血圧の因果関にも不確かな面があり、異議を唱える医学者もいる。私は、上の血圧が200㎜Hgであっても一度の施術によって150㎜Hgになるように努力し実現されている。念ために更なる2、3回の施術をお薦めしているが、塩分制限の注意は全くしていない。たまに、「ふつうの労働をしている方には、味付けを薄味に。おかずの一品はキチンんと塩分を摂る事」と指導している。但し、「味付けを薄味に」の指導は、世間一般の塩分控えめのものではなくて、「おかずの具材の本来の味を味わう為の指導」である。味覚は健康保持の大事。肉体労働者は塩分を多めに摂る事。塩は海水の電気分解によってつくられた化学塩ではなく、ミネラルを多く含む自然塩をお薦めしています。

私が最も恐れ、そして強調したい事は「さんざん塩を使いお世話になっているにもかわらず、知らんぷり」。「塩を利用するだけ目いっぱい利用して銭儲けして知らんぷり」の現代人のエゴイズムである。これは、塩に限った事ではなく万物に対する現代人のあり様の疑問・疑義である。大自然を地球をこの世を利用するだけの人のあり様とその人生が如何なるものか?現代の私達の根本課題でありましょう?

話がここまでくると、「「縁起、空、無」を我々が忘れることに対する法律的罰則がない」という「現代の憲法と法律」の問題と限界が問われてよかろう。憲法改正が叫ばれて久しいが、こうした根源的テーマに切り込んだ改正でないとあまり意味がない。単に、憲法9条がどうのこうのといった議論は底が浅い。否(いや)、9条も、こうした我々の究極の存在論に根ざした根源的議論が大事なのである。犯罪者に対する判決文に、「自己中心的行為に対する諭(さと)し」をしばしば見かけるが、「自己中心的行為」にこそ「縁起、空、無」に根ざした諭しが求められてあろう。「縁起、空、無」は気づかれにくい上に「忘れられる宿命」を持つ。「縁起、空、無」が常に有と共に働いている事を教わっても「縁起、空、無」はいつの時代にも忘却の彼方へと押しやられる宿命を持っている。「縁起、空、無」を知らなくとも、忘れても、見かけ上の損得に差はなく、見かけ上の私達の生活の不自由もない。この「見かけ上」がクセモノ。このクセモノに本物と偽物の区分けの鍵があり、詐欺師の手口の本質があろう。
     
無(縁起)をいくら貪っても、無は滅びない。この世の万物と万事は「無と共にある有」であるからである。縁起であり、空である“無”は私達の根源であり永遠の故郷である。こんにち、多くの人がこの故郷を忘れ、故郷の恩恵に対する感謝を失っているが、しかし、いかに多くの人々が自らの故郷を忘れようが、感謝を失っていようが「無」がなくなる事は決してない。「万物が有る」というその「有る」には、必ず「無」が「ある」からである。私達の目には見えない「無」がある。「無」のない「有」は有り得ない。しかし、こうした事を全く知らなくても人は生きていける。それ故に又、我々は「無」に気づきにくく、その大事を忘れ易いという循環的忘恩がもたらす強欲の悲劇性を無視できない。


こんにちの大変危険な時代の様相──何十万年、何百万年の人類史には見られなかったところの、外見は華やかでハッピイに見える恵まれた文化の只中にあって、明日が分からない状況があります。ズタズタに引き裂かれてある状況があります。こうした厳しい状況にあって、私達はどんな生き方をして、次世代に何を残す事が出来るのでしょうか?古くは『永遠平和のために』(1795)を発表したⅠ・カントさん。第二次世界大戦後に世界(連邦)政府の樹立を真剣に呼びかけたアインシュタインや湯川秀樹さん、 B・ラッセルさん、A・トインビーさんは、何と言うであろうか?
            
アインシュタインさんは、私達に次のことばを遺(のこ)されました──私が世界政府(各国家が持つ主権を放棄して世界政府を設立して戦争をなくそうとする案)を擁護するのは、今まで人間が遭遇した最も恐るべき危険を除去する方法が他にはあり得ないからである。人類の全体的破滅を避けようという目標は、他のいかなる目標にも優先しなければならない(Google,2024,10,15)。

湯川秀樹さんの遺言は次の通りです──世界連邦政府はきのうの夢であり、明日の現実である。きょうは明日への一歩である(Google,2024,10,15)。こうした夢を置き去りにしておいてよいものでしょうか?この課題を背負うにはどうしたらよいのでしょう。こうした夢の実現には、かけ声だけではムリで具体的努力が求められてあります。全人類あげての公的教育と自己教育に基づくあらゆる文化の「「温、湿、柔」による縁起思想の徹底」が求められてあります。より具体的に
こうした夢の実現に向かうには、又それなりの覚悟と能力と体力が求められてあろうが、この準備は出来ているでありましょうか?                                    2024、10、15 渡部 至         

【 追稿 】※「温、湿、柔」も「縁起思想」も、万国、万民に妥当するものであり、大きな抵抗はないでありましょう。けれども、「縁起思想」を、この世の現象をあの世の霊界や神界と関連づける教義が仏教の一派に、量子力学等の現代科学の一派にも見られるのが気になる。誤解や混乱を避けるために、「縁起」をこの世の現実界に限定づけをした方がよいかもしれない。あの世に関する問いかけに対して、仏教の開祖である釈迦牟尼仏陀は沈黙を守り、弟子たちには議論を禁じていた。仏陀の教えの目的は、あくまで人生の苦しみの解放にあり、その知は理性による理性知(厳密には無分別智)であった。 『般若心経』の冒頭の「般若

                          【「現代は物が豊かだが心が貧しい」の問題点 】
これは戦後日本でよく耳にした。しかし、私は問いたい。この命題自体に問題と曖昧さがないか?
「物が豊かで心が貧しい」は本当か? 「物が豊かであれば心も豊かであるはず」ではなかろうか?
「現代は物が豊か」とみなしているその意味は、私達は、たらふく食べる事が出来て、身の回りには沢山の物があふれているといった現代の様態を指していよう。

私達はしかし、”物”の何を知っているか?ミカン1個にしても、色と形と味を確認して了解。通常、ミカンの本質や私達ヒトとの関係の探究もしない。「水の消費や塩の消費」、「消費経済」といった”消費”に疑問を唱える人も見かけない。食べ物は物であり、水も空気も物である。こうした物がしかし、私達の生命に転換されてある。何と凄い事か!?この事実に驚く人は少ない。私達の60超個の細胞の1個の細胞の中になんと地球の100余の元素の99%を含んでいる事が判明。(消滅する放射能元素と新たにつくられた人工元素とを除いた元素が判明)。  

「心が貧しい」といえどもその”心”とは何か?曖昧である。私は”心”を「器官と幕」の装置する。人と事物との「関係の間」に発生するenergyの人の選択と読み取りをする器官(形のない器官)とその映像を写し出す幕の装置、「energyの選択と読み取り器官と幕」としたい。(精神はそのenergyの集約・統合されたもの。様々な心の集約・統合されたものなので少ない)。心も私達の存在や病気に同じく、自分の中には無い。心は「出会いの間のenergyの読み取り装置」である。「出会いの間のenergy」とは、私達(私)が、自然やこの世の人や事物に対面して出会う、その「関係の間」に生まるenergyである。

私達は皆、日常生活での様々な人との出会いの中での喜びやあつれきを体験している。これらの体験をしかし、単なる個人的な体験談として語って終わりでは勿体なく、又、深まらない。このような哲学的探究も、時にはあってよいでしょう。(哲学的探究は、私には私を支える大事な生命活動で、これがなければ、「新しい医道の探究」はあり得ません)。

間の読み取りも一大事である。間のつく熟語は、間をとる、間引き、間抜け、時間、瞬間等の70ものことばがある。何よりも”人間”がある。英語に見られるラテン系の言語にもinterを語頭に持つwordが沢山ある。名詞や形容詞にinterをつけると新たなwordが生まれるので、interのつくwordが更に増えよう。internetもinter-netなのである。

神の国は何処にありますか?イエス、応えていわく──「神の国は、見られる形で来るものではない。又、「見よ、ここにある。あそこにある」などとも言えない。神の国は、実に、あなたがたの只中にある(ルカ伝17 章21.22)。これは、日本聖書協会1955年改訳の『聖書』であるが、問題がある。それは、「神の国は、あなたがたの只中にある」の”只中”である。「あなたがたの只中」が紛らわしい。「あなたがた」とは複数であり、「あなたがたの複数の人の中」とはどういう事なのか?釈然としない。「あなたがた」を個人単位と捉えて、「あなたの中」とすると、これまた問題。「神の国が、私個人の(心の)中にある」となり、私と神との関係がなくなり、キリスト教信仰が成り立たなくなる恐れが生まれる。私の生がキリスト教に根ざすものでなく、単なる文化的・社会的生になる。となると、キリスト教信仰は不要となる。この”只中”は、実は “間”がふさわしい。ラテン語聖書には、この箇所がinterと表記されてあり、日本語の文脈からしても、「神の国は、あなたがたの”間”にある」がスムーズである。“間”の現実と神秘は奥が深い。最も身近で最も忘れがちな語に”人間”がある。皆さん毎日、人間をやっているが、さて、「人間とは何か?」を真剣に探究せんとする人は少ない。人(自己)の生存の拡大の便利追求に明け暮れて・・・これも、「私達人間の性(さが)」といえるかもしれません。「ちなみに、中国での”人間”は、「世間・社会」を意味し、”人間”を”人”の意味に用いているのは、日本語だけの特有なものである。

再び心について。”心”は元来日本人が好む語であるが、実はたいそう曖昧で当てにならず、傷つく事も皆さん体験済みでしょう。心が実体として固定して自分の中に実在する(有る)ものならば、世間でいう「人の心は変わるもの。人の心ほど変わるものはない」はあり得まい。又、心が自分の中に固定してあるものなば、”心”は”心”の一語だけで間に合って、心配、心願、心象、忠心、衷心、人心、仏心、良心等の50もの「心に関する熟語」が不要で生まれるはずがなかろう。ましてや”無心”はあり得ないでしょう。心の探究のヒントとして、”反省”をあげたい。反省は、自分が自分を外部から見る事によって成立していよう。反省の心(意識)が、自分の中にあるものならば反省が成り立たないでしょう。

又、古人の教えに、「目は目を見ず」がある。もし、目が目を見る事が出来るならば、周りのものを見る事が出来なくなるでしょう。これは五感の全てに妥当する。「耳は耳を聞かず」、「鼻は鼻を嗅がず」、「舌は舌を味わず」、「皮膚は皮膚を感ぜず」である。総じて、「私達の認識は、認識を認識出来ない」。だからこそ、認識が成り立つのである。のたうち回る痛みの只中に痛んでいない場がある。絶望して、ウワンウワン泣いていながらも笑っている人を見かける。皆さんも悲しみ絶望して何度か泣いた事はあると思います。泣いているその真っ只中にあって、ケロッとして全く泣いていないもう一人の自分がいる、といった体験をした事はないでしょうか?心(意識)は深くおもしろい。

物と私達との関係の探究において、現代の私達が見逃せない課題にも「近代科学との対峙・対決」がある。近代科学の基盤をなす近代科学の思考法は、それなりに正しく、こんにちの私達の生活に欠かせないものである。しかし、「自我中心の関係に基づく思考法」であり、利便性に長けているその便利さ故の多くの危険性をはらんでいる事は再三述べた。万物の尊厳を失い、私達人間の尊厳を失い自滅する危険性である。しかし、近代科学の超克(乗り越え)を感じさせるものとして、量子力学、宇宙物理学といった現代物理学が出現。こうした現代科学が、仏教の「縁起思想(空)」に根底で通ずるもの有り。ここに希望と救いがある。「新たな営為(えいい)」が始まる。               2024、10月

【忘れていた「自然道」──何の見返りも求めない絶対無償の自然の愛】 私達人間のあり様を自然にならわんとする道を「自然道」としたい。ダイナミックな大自然から我々人類への「何の見返りも求めない無言の絶対無償の愛の道」があり、我々人類の大自然への「敬愛と報恩の道」があった。先ずは、私達の生存に、空気・水・衣食住が絶対に必要であるという事は、私達は単体ではなく「縁起(空)」によって存在出来ている事を示している事を確認したい。次に、目が見えて、耳が聞こえ、手足と口が動き、不自由なく生活出来ている、「出で来てある事」に驚き畏れ喜びたい。そして、天地に通ずる「自然の道」を模索したい。大自然の絶対・無報酬の恩恵とそれに対する報恩を説く「自然の道」が、ソクラテス、仏教、儒教、資本主義や共産主義、近代憲法にも抜けていた。イエスの「天の父は、善人にも悪人にも分け隔てなく恵みの雨を降らせたもう」の教えには「神の教え」があったが、強烈な「一神教の教え」であったが故のあつれきとほころびが生じている。

我々は一体、何の、どのような権利を持って飯を食らい、一方的に万物を利用出来ているのであろうか?そもそも、自分でつくった覚えのない目、耳、鼻、口、手足は誰によって造られて、誰の許可を得て使っているのか?それもただで使ってきた。我々には深い恵みが2重に与えられてあったのである。我々が命ある小宇宙としてこの世に送り出されてあった事、この小宇宙が存在・維持・活動できる水や食べ物等の全てが与えられてあった事の二つのとんでもない事件が起こっていたのである。しかも、この二つとも、差別なく、何の見返りも求めない絶対無条件の絶対無償の恵み(愛)であった。

キリスト教には、ヤハウェイの神の人に対する万物の絶対・無償の恩恵が説かれているが(厳密にはヤハウェイの神は、人に自らの絶対唯一神信仰を求めているが)、ニーチェ以降のキリスト教の神に対する「死の宣告」には強烈なものがあり、キリスト教教義の力を失っている。唯一絶対神であるヤハウェイ神による万物の絶対・無償の恩恵の教えが弱まっている。致命的なのは、第1次世界大戦のわずか25年後の第2次世界大戦での民間人を含む戦死者が5,000万~8,000万人が出て、原子爆弾までも出現した事である 。万物の人類の創造主であるはずのヤハウェイの神は、「かくなる惨状に対してどのように向き合ったのか」という素朴な疑問は消せない。又、ヤハウェイの神の御子(みこ)イエスの「私のために命を捨てる者は永遠の命を得る」という再三の教説のその確証は?「見よ、私はすぐに来る!」という約束は、いつ果たされるのか? 2,000年が経ったのに。
 
ヤハウェイの神による万物の絶対・無償の恩恵が説かれていたキリスト教が怪しくなってきた状況にあって、確信を持って、絶対・無償の恩恵を説く教えがなくなった。キリスト教の聖書の創世記の教え──「神が天地をつくり、動植物をつくり、最後に神に似せてつくった人に動植物の支配を委ねた」によると、我々の万物利用の権利は、神から与えられたものであるので、神によるブレーキがかかっている。しかし、「神の死の時代」に突入したこんにち、ブレーキが壊れた車に乗って突っ走っている状況がある。アメリカとロシアの核爆弾の保有数が何と1万3千発を越えている!人間の愚行はどこまでエスカレートし、どこへ行こうとしているのであろうか?こんにちのアメリカの混迷の根底には、神を失った人々の絶望、ニヒリズムがある。

(a)“自然”とは何か?
“自然”とは、日本語本来は自然に”「自ら然らしめて自らあって、自然に」という副詞的用語であり、名詞ではなかった事に注目したい。明治になって“nature”という名詞に対応させて“自然”に名詞化されたが、便利になった反面、“自然に”“自ら”“自ずと”という副詞的意味合いが薄れると、 “自然”が固定化して本来の妙なる働きを見失い、本質を失う恐れがある。“自然”は「自ら然らしめて自らある、自然にある」、正にその故に、我々人は、大自然の「何の見返りも求めない絶対無償の自然の愛」に気づきにくい。気づかなくとも生きていける。アメリカや日本の憲法でいう「自由の恵沢」という「天賦(てんぷ)の恵」が、絶対無条件に一方的に無償で平等に与えられてあるように、我々は天から何らかの見返りを求められた事もなければ、請求書を受け取った事もない。自然は、「自らを然らしめる働きによって自らあってあるものとしてあるもの」なので、何の見返りを求めなくとも「自然である事が出来ている」のである。「自己完結」しているのである。

(b)「天地自然の二重の恩恵」に対する人の無自覚と忘恩
「衣食住、空気、万物」の天地自然からの絶対無償の恩恵に対する我々の無自覚と忘却に加えた、もう一つの無自覚と忘却があった。それは、それ以前の最も原初的な天地自然から与えられた「自らの存在の凄さ」の驚きと感謝の無自覚と忘却である。我々が「自然の子」である事のその事の凄さの無自覚と忘却があった。


ごく少数の人を除いた万人が五体満足で生まれ、思うままにあちこち歩き回る事が出来て、暑い時は暑いと感じ、寒い時は寒いと感じ、怪我をした時は痛みを感じ、具合が悪い時は悪いと感じ、しかも、それぞれに対処できる智恵も与えられてある。こうした原初的なさまざな感覚と能力のすべてが与えられたもので、自分でつくった人はいない。野山を歩き回って木の実を採取し、狩猟をするにも手足を使ったはずであるが、その手足を自力でつくった人はいない。我々は「二重に恵まれた自然の子」であった。絶対無条件・無償で「生命体」が与えられた上に、「衣食住、空気、万物」も絶対無条件・無償で与えられてあった。こうした当然すぎる自然な事どもに無知すぎた。「無知の知」を説いたソクラテスおじちゃんもこの事には無知であった。老子おじちゃんの「道の教え」に”幽玄”(ゆうげん)があり、有り難いが難しい。「究極の形のない道」と「この世の形ある世界(次元)」とのこの「と」の「間」の神秘であり奥義である。上述したイエスさんの教えに通じるものがあろう。老子おじちゃんは「神の国」ではなく「道」であるが、”幽玄”とは実は、上記の「「天地自然の二重の恩恵」に対する人の無自覚と忘恩」に示した事柄の神秘的表現の語でありましょう。

(c) “自然”に於ける「人類の悲劇の根本相」と「恵まれすぎ病」
「空気や衣食住の大自然からの絶対無条件の絶対無償の恵み」と「自然が自ら然らしめて自ら自然である事」の驚きに気づきにくいという人の性が悲劇を生んでいる。“自然”は大変なことばである。「自ら然らしめて自らある」、「あまりに当然すぎる恵み」の正にその故に、我々人間の「無自覚と忘恩を生む危険性」がある。無自覚と忘恩は、更なる欲望をあおる。「天地自然の恩恵」によって、我々が小宇宙としてこの世に生まれ、個体として不自由なく存在出来ている事、万物が我々人に絶対無報酬で与えられてある事を人類がすっかり忘れても、天地自然は無頓着。教育、農業、政治、経済、産業、工業、医療等のあらゆる分野で、人がこうした究極の恵み(愛)を忘れても、天地自然は無頓着のようである。私達は、「忘却の罪業」を忘れていたようです。天地の恵みに対する私達の忘却は罪でありました。このテーマが、恐らくは21世紀最大のテーマになるでありましょう。ニーチェお兄ちゃんの『悲劇の誕生』の根本相にも切り込めるかもしれない。

アメリカ合衆国憲法(1787年)と日本の憲法 (1946年) の前文にも、「自由のもたらす恵沢(めぐみ)を確保する事の大事」が強調されてある。この自由は、我々人間の自由であるが、さて、この自由はいったい誰が授けたものか?アメリカの独立戦争に勝利した『独立宣言』(1776)からの流れによると、キリスト教の創造主である神から授かったものである。これは、キリスト教国であるアメリカでは自然であろうが日本ではムリがあり、日本では、いわゆる「天賦の恵」(天の恵み)とされてきた。問題はここ!この「天賦の恵」の扱いがあまりにぞんざいで、議論も少ない。何の見返りも求めない天の絶対無条件の無償の愛の贈り物に対する我々日本人の認識があまりにもなさすぎたのである。この認識があるのとないのとでは、我々の人生が大きく変わる。「全体的・永遠性に根ざす人生」(我と汝)と「自分に根ざす人生」(我とそれ)の二つに分かれる。社会も国家も二つに分かれる。
 
「幸せ」を求めて流浪した人類の長い歴史がある。メーテルリンク(1862‐1949)の『幸福の青い鳥』があり、カール・ブッセ(独1872‐1918)の『山のあなた』がある。しかし、幸せを求める事が不幸の始まりであった。本来、自然から無償で生命が与えられ、成長に欠かせない水や空気、衣食住のほかの万物も天地自然から無償で与えられてあり、しかも、何不自由なく動いて生きる事が出来ている。「至高の原初的恵み」が与えられてあった。しかし、この恵みに気づかずに、或いは気づこうともせずに遮二無二努力して更なる富を築こうとするのが人の常であった。人は欲張りで、充分に与えられてあっても満足せずに更なる富を求めがちである。「恵まれすぎ病」とでも名づけよう。「至高の原初的恵み」に全く気づかずに貪欲に求めてやまない人の様である。それも、「天地自然の絶対無償の至高の原初的恵み」に対するおそれと感謝のない求めなので、ブレーキが効かず歯止めが効かなくなる。際限なく一方的に求めるので、満足感がなく、喜びがない。世がゆがむ。

「幸福は求めて得るものではなく、既に与えられてある事に気づく事」ではなかったのか?人の求める欲望は強く、イエスでさえその欲望を認めた。イエス、曰くーー「求めよ、さらば与えられん。門を叩け、さらば開けられん」。イエスの言質はしかし、あくまで絶対創造主に対する信仰をベースに置いたものである事は注意すべきであろう。

「自然」が決定的なのは、“自然”が人の無知や傲慢、忘恩をも全て含めて、「自らを然(しから)しめてしまう事」である。人の果てない欲望によって汚された空気、破壊された自然、戦争の残滓、果ては核爆弾の恐るべき放射能汚染までをも、天地自然は「自らを然しめて自然たらしめてしまうスゴ業(すごわざ)を持っている事」である。人のエゴイズムがいっそう増強・拡大する。これが、人類最大の恵みと悲劇の根本相でありましょう。

第1次世界大戦後に誕生した国際連盟が頓挫。国際連盟は、ドイツの有名な哲学者カントの小論『永遠の平和の為に』に賛同した当時のアメリカ大統領ウイルソンのかけ声で誕生したのだが、肝腎なアメリカが不参加という致命的欠陥があった。

その反省のもとに第二次世界大戦後に誕生した国際連合も行き詰まっている。大きな問題は、最大かつ絶対的権限を持つ常任理事会の5か国(英米仏露中)の理事国全ての賛成がないと事案が成立しない事である。5つの常任理事国が全て、第二次世界大戦に勝利した連合国で、しかも核保有国である事も見逃せない。第二次世界大戦に負けた日独伊は常任理事国になれず、核の保有も認められていない。国連は、第二次世界大戦後の中国共産党によるチベット侵略を止める事が出来なかった。朝鮮戦争もベトナム戦争も止める事が出来なかった。かの「世界(連邦)政府構想」も露と消えてしまうのでしょうか?米露中の「力による外交」は止まらない。しかしながら、一つの希望がある。それは、弱小とはいえ独立国が大幅に増え、国連加盟国が193ある。常任理事国を除いた188か国のエネルギーとパワーに期待したい。「アメリカフアーストといいアメリカを偉大に」といえども、アメリカがアメリカだけで存在しえず、他の多くの国との関係があってこその主張です。そもそも、他国を無視した「アメリカフアーストやアメリカを偉大に」は現実的論理上ありえず破綻しましょう。「東京フアーストも日本フアースト」も同じです。又、フアーストの分捕り合戦には、必ず闘いが生じましょう。

話題を国連に戻したい。常任理事国を除いた188か国のエネルギーとパワーを結集した組織づくりがありましょう。常任理事会に匹敵する権限を持つ新たな組織づくりです。二つの組織による国連運営はあり得ないが、常任理事国を除いた188か国のエネルギーとパワーを結集した組織は無視できず、独占的権限を持つ常任理事会に風穴を開ける糸口になるかもしれません。

明日にも破滅しそうなこんにちの大そう危険な時代に生きる私達に残された道、それは「背負う事」です。恵まれたままに重荷を背負わされてあり、引き裂かれてある私達の現実存在を背負う事です。かつての戦争による悲劇は、「ある時、ある所」での限定されたものであり、「語り継ぎ」が出来た。こんにちの核戦争の脅威はしかし、全く異なったものである。広島、長崎に投下された原爆の何十倍もの威力を持つ核爆弾の打ち合いに、人類の私達の未来はない。未来があるとしてもその様(さま)は地獄でありましょう。

核爆弾の打ち合いになると、たちまち無数の死者が出るのみならず、地上の動植物が死に絶え、大気は濃厚な放射能に汚染されて空気を吸えなくなり、空は黒雲に覆われて大地に日が差さず、零下30度の極寒の日が全地球的に続くという。「語り継ぎ」が出来ないほどの、或いは「語り継ぎ」が意味をなさなくなるほどの惨劇になるでありましょう。

再び、こんにちのかくも恵まれた時代に於いて、かくも残酷な状況に置かれてある私達がなすべき事は何でしょう?それは、「恵まれたままに引き裂かれてある私達の現実存在」を自ら積極的に背負う事でありましょう。もはや私達に逃げ道はありません。重荷を背負いながら歩むほかはありますまい。それには心身が健やかでなくてはなりませぬ。

そのためには、(ァ)心身を冷やさずに温める事。(ィ)糖分摂取を控えて良い酸味をとる事。(ゥ)近代西洋医療を超えた医療に徹する事。(ェ)身の回りの人々との連携・絆を強める事。(オ)スケールが大きく深く確かなリーダーの育成に努める事。国民自身も人間的成長に努める事。この5点は欠かせません。

日本が危ないのは対外からの脅威だけでなく、こうした課題に取り組もうとしない事による自滅の可能性の問題もあり ま。                       

日本人をやっつけるのに核ミサイルは要らない。日本人が大好きな「冷たいものと甘いもの」を勧めるだけでよい。心身を冷やし、糖分摂取過剰に狂っているこんにちの多くの日本人は異常です。 ビールやらジュースやらのガンガン冷やしたものをガブ飲みし、チョコレートやらスィーツやらの甘いものをたらふく食べている。みかんやぶどう等の果物だけでなく、トマトやカボチャ等の野菜までも糖度を競って銭儲けに走り、アレルギー疾患や花粉症や癌をつくっている。顔までもスィーツの顔になっている。

かつてのみかんは腐る事はなかったが、今のみかんは10日ほどで腐る。酸味をなくし甘くしている為である。腐れやすいものを全国民が食べているのである。様々な病気になるのは当然でしょう。農薬問題を気にする学者や国民は多いが異常な高糖度を指摘する人はいない。糖度を高める事による銭儲けは法律違反ではなく、しかも現代西洋医療ではこれらの病気に対する手立てがないので一層深刻である。「甘い誘惑」は大変強いもので、我慢の努力ではムリでこの誘惑に打ち勝つには酸味摂取が決め手となる。この原理は「陰陽五行論」によるものだが、長くなるのでここでの深入りは避けたい。

コロナ禍に於ける現代西洋医療の無力が暴露されたのみならず、巨大製薬会社に翻弄されている医療界や政界やマスコミや役所・・・。かつての日本の家庭の一大行事であった「梅漬けや梅干しづくり」を多くの家庭が放棄。日本が「病気の巣」になる。既になっているが、更にひどくなろう。

戦前・戦中の日本の男性の平均身長が150㎝台で平均体重が50㎏台であったが、60㎏の米俵をかついでいた事を忘れてなるまい。ここに更に利己的な個人主義が加わると致命的である。おまけに、保身に走る政治家や官僚が増えている。アメリカだけでなく日本に於けるマスコミによる情報統制も深刻である。8回ものコロナワクチン接種を勧める国は日本だけだという。おまけに10月から大そう危険なmRNAワクチン接種を国が奨励。アメリカのロバート・ケネディ・ジュニア氏が危険なワクチン製造会社と闘っている事に注目したい(『なぜ私がワクチンを疑うのか』 ロバート・F・ケネディ・ジュニア。経営科学出版)。 

都市部への人口移動は止まらない。農山村の人口は減少する一方で、子供の姿を見かけることが少なくなり、限界集落(人口の50%以上が65歳を超えている集落)が2万件を超えているという(2019厚労省)。先祖代々の家屋敷や田畑をちゅうちょなくやすやすと手放す人が増えており、農山村の荒廃は止まらない。農業はすたれ、食料自給率は下がる一方である。こうした状況に、過去の伝統の軽視と否定がみられる。これは、現在の自分の人生の軽視と否定につながり、ニヒリズム(虚無主義)に陥る。国の「地方創生」も、かけ声だけ。農山村の創生の真剣な声が聞こえない。日本が危ない!

全国の小、中、高生の全員に、午後は百姓になってもらう⁈ 毎日、朝から夕方まで 机にお座りしてお勉強、おまけに塾通いは異常ではないでしょうか?  私達は本来「自然の子」。これ以上の自然から離れた生活と仕事は「人間」を失い、人格を劣化させる。「大地(自然)に根ざした教育」を忘れていなかったか?鍬を持った事もない者が農業を論じ、農業政策までも打ち出すとなるとおかしくなるのは当然であろう。現行の学校の部活のスポーツといえども、大地を離れたスポーツはない。 「全国の小、中、高生の全員が、午後の半分は百姓、半分は部活もよし」。雨の日は、教室や図書館での百姓の勉強もよかろう。 ”百姓”は広くて意味深い。「百の姓を名乗る事が出来る仕事」という説あり。「全国の小、中、高生の全員が百姓になる」は、個人の人生のみならず、国家の根幹に迫り得る重大テーマでありましょう。

東京などの大都市の市街地の学校の子どもたちは、他町村の子供たちがつくった米・野菜 の調理・保存もよし。販売は経済の学びになる。こうした試みによって、これまでの学習や部活が新たに甦るでありましょう。少なくとも、先進国の中で日本の子どもが「希望が持てない国 ワースト2番」といった 事はなくなり、又「50歳以下の死亡者数のトップが自殺」といった悲劇は なくなるでありましょう。(日本の自殺者の統計には事故死を含んでいない 点に注意したい。事故死を含めると自殺者が更に増えよう)。      

梅原 猛さんが生前「人が宗教を失った時は道徳をも失う」(ドストエフスキー)と再三訴えておられたが、「人が宗教を失った時、人間性を失い家族や社会や国家をも失う」でありましょう。ここでのしかし宗教が問題で、様々な人の手あかにまみれた神はゴメンこうむりたい。勝手な人々の勝手な都合によって つくられ振り回されてくたびれ果てた神々もゴメンである。或いは又、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教における強烈な唯一絶対の宗教の「光と影」が、硬直化し先鋭化している中での唯一神信仰にも躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ないものがある。こんにちの中近東やアメリカの混乱と危機が好例で、「唯一神信仰の揺らぎ」が先鋭化している。「神なき時代における神頼みでない宗教」として、私は「自然道」と仏教の「縁起論」を奨励したい。但し、ここでの縁起論は、あくまで釈迦牟尼仏陀(釈迦族出身の尊い覚者)にならって、死後のかの世との関連づけを排除した「この世の事象に限定した縁起論」にしたい。この「縁起論」に対しては、どの宗教も拒否する理由はないでありましょう。    

こんにちの人類史最大の危機の時代に於ける恐らくは最後の「救いの道」、それは「大地に根ざした自然道」に於ける「縁起の道」でありましょう。”縁起”はしかし、こんにち、単に「今日は縁起がいい、悪い」、或いは「縁起でもない」といった風にしか使われなくなっていて死語に成っているが、不幸の極みです。日本にとっても、世界にとっても一大不幸です。”縁起”とは、「縁による起こり」、即ち「相依相関による事物の生滅」と捉えてよいと思う。2,500年前の仏陀の教えである。

私が打ち出した破天荒な病理観とその医療は、「ダイナミックな自然道」に根ざした「縁起の医療」です。そこで、これにならったところの「縁起に根ざした政治、経済、教育、農業などの構築」は不可能でしょうか?縁起の自然観に基づく学問、文化、社会、国家、世界の樹立はできないものでしょうか?できないとするならば、これに代わるどんなものがあるでしょうか?縁起によって万物が存在し、私達が生存している事実に気づかずに、遮二無二努力する私達の努力の虚しさと危険性がどれほどのものか?私達はいったい、いつ、どこで気づくのでしょうか?現代の私達の智惠は、おおかた2,500年前の仏陀の教えに到達していない。しかしながら又、こんにち「おかげさまで」とか「お世話になっています」といった語句が挨拶代わりに使われている事にはかすかな希望がある━━私達は引き裂かれたままに恵まれてあります。  

「私達は恵まれたままに引き裂かれてあり、引き裂かれたままに恵まれてあります」(西谷啓治)。                                          2024,12,10

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 【 GHQによるGHQによる日本人の骨抜き政策とニヒリズム(虚無主義)の問題 】                日本人の優秀さを恐れたGHQが、7千冊もの焚書(ふんしょ:本の焼き捨て)にとどまらず、優秀なトップを公職から追放して「日本人の骨抜き政策」を実施。これが見事に成功。私達日本人の多くがふぬけに成り、或いは学歴やら職業等のうわべを飾り立てようとする薄っぺらな輩(やから)に成り、或いは又、計算する犬や猫に成り下がり、”人間”を忘れてしまったかのようである。多くの人々が又、「自分は人間である」と思い込み疑わない━━「人間として生まれたのだから、生涯にわたっ人間である事に変わりはない」と。しかし、Just a moment ! ”人間 ” は ”人” ではない。俗説に「 ”人” は、一人の人と一人の人が支え合っている様(さま)を示す」がある。司馬遼太郎さんが渾身のエネルギーを注いで書き上げた『21世紀に生きる君たちへ』(1993年大阪書籍)──小学6年生の教科書に掲載された詩で、相手が未来を担う子供たちなので力が入り、一編の小説を書くよりも苦労したという。司馬さんの誠実さがある──にも”人”を「人と人との支え」と捉えていて、助け合いが強調されてある。これは、語源的には間違いで”人”は「人の歩きを横から捉えた姿」である。

”人間”は「人と人との間に存在するもの」とする解釈をたまに聞く。しかし、これだと私達の生みの親である大自然を忘れがちになる。そこで私は”人間”を「間に存在するもの」としたい。「大自然やら人やらとの間に存在するもの」としたい。”人間”ということばは凄い。世界に冠たる語である。私達はこの語を深く認識して世界に広めるべきです。”縁起”と共に。この2語が私達に与えられてあった!! 私達がこの日本に生まれ日本に生きる基盤と意味が、この2語にあった!!何という恵みでありましょう!! ”縁起” 万歳、”人間” 万歳!!(ちなみに、中国では”人間”を「世間」と捉えていて個人には使われていない)。

話が飛んだが、戦後のGHQによる「日本人の骨抜き政策」に対する反抗が起きている。古くは、三島由紀夫さんの革命事件が好例である。しかし、GHQによる「日本人の骨抜き政策」だけでは、こんにちの日本の精神の弱体と衰弱を説明しきれないものが残る。中国や欧米は勿論の事、全世界を覆っている深刻なニヒリズムによる精神の衰弱を考慮すべきであろう。私は、ニヒリズムの根底に横たわっている「神の死」と「近代科学・技術の罪業」の問題が課題であるとみています。

【アメリカのイーロン・マスクとR・ケネディ・ジュニア両氏の入閣に注目したい。あくまでも”人間”に立脚した営為に期待したい】。2024.12.31

【1万4千年もの長きに亘って戦争のない時代が続いたという縄文文明の三橋貴明さんの論考に注目】こんにち、貨幣経済が、即ち貨幣を基軸とする経済(学)が常識とされ全てであり、他には考えられない状況にあるが、三橋さんは、縄文文明の根幹に “ⅠO Y ” 「Ⅰowe you(私は貴方に負っている、借りがある)」という経済があったという。貨幣がなく、文字がなく、紙もない時代に、何によって売買がなされていたのか?100年、1,000年の深い信頼関係に基づく「口約束」による売買がなされていたというのである。厚い信頼関係があったので、貨幣も文字も必要としなかったようである。現代の私達には信じられないユートピアであるが、1万4千年もの長きに亘って戦争のない時代が続いたという縄文文明の謎に思いを潜めると、「さもありなん」とせねばならないものがある。(長く戦争がなかったとする根拠は、縄文時代の遺物に人的殺傷武器が見つかっていない事。同時代の遺骨に戦争による傷痕が見られない事の2点がある)。混迷する現代にあって、大きな指標になりそうです。(2025,1,16)