Byakko Oriental Medical Office

治療方針・理念

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「当院の方針」

【1】医療の根本は、技術はむろんの事、祈りと哲理にある事

【2】病人が減るように努める事

【3】病を表面的部分的に捉えずに、内臓との関連の中で、根元的全体的に捉える事。頭は頭だけで、目は目だけで、あし(足、脚)はあしだけで出来ていません

【4】病気の原因を解剖学的病理学的に求めるだけでなく、患者さんの生活に求める事。即ち、患者さんの衣、食、住、労働、精神生活等に求め、その改善に努める事

【5】派手な宣伝は慎み、患者さんの自発的自然な口コミによって広められる事

以上、何かお気づきの点がありましたら、お知らせください。

*以上の方針は、待合室に掲げてあるもので、開業以来34年間変わっておりませんが、次の三点を加えたい。

[6] みなさんと私共、互いが「人間である事に気づき、真の人間、真人間」に成る事に努めること。 近年、「人間の人間による人間の忘却」が一層強まっている

[7]「生、老、病、死」を真剣に探究する事。多くの人びとが、この最も身近で大事な問題をないがしろにしがちです。教育も、政治、経済、農業、医療も福祉も・・・だから、知識も私たちの存在も社会も浅はかになりがちです。特に近年は、「生きる事」への執着が一層強まっているが、「人間の生、老、病、死」についての探究は置き去りにされている。
[8]従来の医療人の姿勢は、「患者さんに寄り添って」、「医学の知識で医療に当たる」でした。キリスト教の愛の精神で、仏教の慈悲の精神で、あるいは博愛の精神等で患者さんに向き合う事はいいとしても、しかし、医療における科学的医学との間には深い断絶があります。A.シュヴァイツアー(仏1952ノーベル平和賞授賞)は、キリスト教の「隣人愛」や仏教の「生命の畏敬(いけい)」に突き動かされてアフリカでの医療に従事したが、彼の医学はドイツの科学医学でした。当院は一体です。2017.春

理念」

もう一つの病理観

「根源的関係の病理観と 空の医療」~哲学的試み
人類有史数千年の叡智(えいち、英知)の結晶です

(1) 次の文中の「空」(くう)、[無」(む)、「無い」(ない)は、普通の意味での「何も無い」という意味ではありません。

「有る」事に対して「無い」を意味していません。例えば、目の前にあったコップを片付けてそのコップが無くなるという事ではありません。目の前のコップが「有るがままに無くて、無いままに有る」のです。換言すると、「相互依存の関係」であり、「縁起」を意味しています。 この世に有る全てのものは、絶対的に単独に個体として存在していない。万物が、相互依存の関係によって存在している。 「空」=「無」=「無い」=「無数、無限の相互依存の関係」です。

これがまた、仏様(ほとけ)を意味してます。多くの仏像は、「大宇宙の無数、無限の相互依存の関係の化身(けしん)」です。即ち、この関係を姿、形にしたものです。本来、あらゆる関係は姿、形なく、目で見る事は出来ません。ですから、無であり空なのです。しかし、これらの真理を一般庶民に理解させ広めるためには、目に見える形としての仏像にせねばならないという永い歴史的事情の葛藤があります。偶像礼拝の危険性をはらんでいます。仏信仰はいいが、仏像信仰には問題がある。
視覚を重視する伝統は根が深く、古代ギリシャの智者、ソクラテスでさえもそうで他の感覚を軽く位置づけていて、視覚偏重の学問と文化になりました。例えば、幾何学は学問として発展しましたが、料理(味覚)は芸術として認められませんでした。人類の宿業(しゅくごう)ともいえる大問題。こんにちの医学にも通じています。

(2)「できる」を「出来る」にしました。出(い)で来(く)る、物やものごとが、出(い)でて来る様(さま)を如実(にょじつ)に示すためです。「なる」を「成る」に、「こと」を「事」にしました。 いずれも、生成(せいせい)のダイナミズム、大自然の動的エネルギーをリアルに示すためです。漢字は、おそろしい力を秘めています。

(3)この論述は、慣れていない方には、少しむずかしいかもしれません。通常の次元と違っているからです。この違いが、はっきりお分かり頂ければしめたもの。新たな地平が開かれます。じっくり読み込んで下さい。なお、音感とリズムをとりながら作文したので、1,2,3のリズムをとって音読していただくと、より理解が進むと思います。前半は哲学的、後半は具体的論述です。本論に入ります。           〜 〜 〜 〜 〜 〜

人類有史数千年、この世に、一切の病(やまい)無し。過去にも、現在にも、未来にも、一切の病、無し。
むろん、無数の病に倒れた無数の人々が過去にいたし、今もいるし、これからもいるでしょう。しかし、それは、一現象であり、根源的本質的には、全ての病が「空」であり、「無い」のである。全ての病が、空であり、無であるからこそ、無数の病が生まれ得るのであり、死も生まれるのである。

この世に有る万物が、全ての事象(出来事)が、絶対的に単独に孤立して固定して生まれる事はなく、滅する事もない。 全ての物が、私達が、全ての病が、 「相互依存の関係の間」 に生まれ、滅んでいる。

細菌やウイルスも、単独では存在し得ない。これらが生存し繁殖するには、必ず、相手を必要としている。虫歯菌が虫歯菌だけで虫歯に成る事が出来ましょうか? インフルエンザウイルスが、インフルエンザウイルスだけで 「インフルエンザにかかる」 ということが起こるでしょうか? ピロリ菌が、ピロリ菌だけで胃潰瘍を発病させる事ができましょうか? 花粉が花粉だけで、「花粉症」 という病気を発病させる事が出来るでしょうか? がん細胞が、がん細胞だけで、「癌」 という病気を発病させる事が出来るでしょうか?

我々には、目に見える物に対する強い執着がある。目には見えないものがこの世にはたくさんあって、見えないものを何が何でも見ようとするすさまじい歴史がある。しかし、絶対に見る事が出来ないもので、病理観の中核になり得るものがある。見えにくいものとして 心、霊魂、微粒子, 遺伝子・・などが考えられよう。

心を日本人は大事にしてきたが、近年、忘れがちになっているという嘆きをよく耳にする。しかし、人の心は変り易くあまりあてにならない。 実際、心のつくことばがたくさんある。 良心、無心、誠心、清心,忠心、衷心、悪心、邪心などなど。 こうした多様な、しかも正反対の意味の熟語をも持つ「心」を病理観の根本に据(す)える事は、私共には出来ない。 霊魂については、ここでは踏み込まない。 微粒子や遺伝子は、電子顕微鏡の発明と進歩によって一部は見る事が出来るように成った。

ここでとりあげたいのは、「相互依存の関係」 のこの関係である。この関係こそ、絶対に目に見えないものであるが、万物の生みの親である。 細菌やウイルスの、微粒子、遺伝子、宇宙の、そして心の生みの親でもある。 この「相互依存の関係」 に基づいた確かな病理観をここに提唱したい。 我々は、相互関係によって生まれ、去ってゆく。その間、たくさんの物を見る。 しかし、”関係”を見ることは、絶対に出来ない。 しかも、関係は、忘れ去られ易い宿命を背負っている。

我々の存在が、水や空気や食物等の”無数の関係の間”に生まれるものである限り、私は私だけでは存在しえない。 病もまたしかり。 全ての病は、”関係の間”に生まれるところの仮の相(すがた)であり、その実体は「空」であり、「無い」のである。

もし、これを否定したなら、我々の存在は有り得ない。 病も生まれない。 医療も成立しなくなる。我々の存在が、そして病が、絶対的に単独に固定して変化せずに有るものならば、「我々が、ある病にかかる、病気に成る」 という現象は、起こり得ない。「病が治る」という現象も起こり得ない。 仮に、一度、病気に成ったなら、病気に成ったままである。 我々の実体が、空であり無であるからこそ、我々は生まれ存在し、病気に成る事が出来るし、その病気を克服せんとする医療も成立するのである。

「根源的関係の病理観」とは、病気を最も根源的本質的な関係の場でとらえる見方であり、病気の実体は、単独には無いものである。 病気は、根源的本質的に無いのだから、無い方向に向かって努力すればよいのである。これが「空の医療」である。 この世のあらゆる病気は、「関係の間」に生まれるものなので、「間」の改善が大事である。悪い関係の間を改善しながら、その病気に対処すればよいのである。
こうした根源的関係と空を積極的にとらえることを忘れた近代文明とその医学は、「有(ゆう)の地平」をたくましく切りひらき、今日の豊かさを築いた。 しかし、「有の地平」の根底には、「無の地平」が横たわっている。 厳密には、「有と無」は一体であり、この世に存在して在る物を基準にすると・・そうせざるを得ないのだが・・「有即無、無即有」(有=無、無=有)と成り、有るものがそのままに無いものに成り、無いものがそのままに有るものに成ってこの世に在るのである。

有は、無によって有に成り得る。無のない有は、この世に在り得ない。しかし、我々の多くが「無の地平」を忘れ、有を「有の地平」だけで、あらゆるものをたくみに利用し、処理しようとしてきた。根源的相互依存の関係の地平を忘れて、現象として表れた「形ある有」を「形ある有」の地平だけで利用し、処理しようとしてきた。近代西洋医療も「無の地平」を忘れ、病気を「有るもの」と見なして疑わず、病気をやっつけて無くそうとしてきた。 これが、現代医療と現代文明の苦悩と行き詰まりの根本相である。

今日の状況は、極めて深刻であり、絶望的でさえある。今こそ我々は、「空の場」、「無の場」、即ち、「相互依存の関係の場」に進み行かねばならない時である。 政治、経済、社会、教育、農業、医療、全ての文化、我々の生活も、全てを 「無」 に帰して再創造すべき時である。 ただし、一般的意味の単に「ゼロに戻して」ではなく、「相互依存の関係の場」に帰ってである。 ここに、いわば半分の可能性がある。無の半分の可能性がある。

幸いなるかな、我々には、その能力が与えられてある。 また、責任もある。 我々が、「相互依存の関係の場」に進み行き、入り込み、その関係の改善に努めること。 大きな事でなく、身近な事で、我々の[今のこの場」から出来る事から、再スタートすべき時が来たのである。 我々の生き生きとした真の実存(生のありよう)が、ここから再スタート出来る。真の医療も、ここから再スタート出来る。

私共、根底に、釈迦牟尼仏陀(しゃかむにぶっだ)の「空の哲理」と「老子の無の教え」、そしてM.Buberの「関係の哲理」、I.カントとE.フッサールと竜樹の認識論を置き、その上に、東西の両医学をすえ、この両者の周囲に農業と諸学問をすえる。更に、詩と音楽によって全体を包み込んで天に向かう。そして、この地に戻って病人に向き合う。この激しい同時的営為の遊びによる新たな医学の哲理の可能性を探究している。

(東洋医学の根幹に私共、2000年前の中国医学の原点と言える「黄帝内経素問霊枢(おうていないけいそもんれいすう)」を置いている。この著作は「道教(タオイズム)」にも多大な影響を及ばしている。京都の仁和寺(にんなじ)に保存。国宝。陰陽五行論に基づいた病理観と医術で、30年をかけて日本語に翻訳された力作「黄帝内経素問霊枢」(全24巻、柴崎保三著、雄渾社)が当院にある。興味のある方はお申し出下さい)。
・・我々はいったい、なにゆえに、”有”であって”無”ではないのでしょうか?・・(M.Heidegger.WAS IST METAPHYSIK ? 「形而上学とは何か?」1950 )

2500年前に、仏陀は説いた・・生,老、病、死が ”空”であると。
仏陀は晩年、故郷への帰路の途上、信者が差し出したきのこにあたり、他界した。80才であった。私共、仏陀に 「何故、死んだのか?死を止める事は出来なかったのか?」 と問う事は出来ない。けれど「食中毒でなぜ死んだのか。病が空であるならば、その空に根ざした医療で食中毒を克服できなかったのか?」と問うことは許されよう。 病が空であるならば、それに基づく病理観と医療が確立されて当然であろう。仏陀とその弟子たちには、それがなかった。今もないのである。

病人に成り悟りについて問答する有名な「維摩経」にも、病気についての探求は)は、薬師寺とその信仰の土台をなす経典である。(この文、器機の不具合で直したいが直らないのです)。、全国津々浦々、800もの薬師寺がある中で、その土台なる「薬師経」が必ずあるはずで、その中の病理観をつかみたいと願って必死に捜した結果、友人によってようやく見つかったのです。
この中で、薬師如来が12の悲願(ひがん)を立てている。 その中で病気をとらえている事は、人間の全体的救いを意味し、注目したい。
これには、病気からの解放だけでなく、衣食住が満たされ、貧困にあえぐ事もなく、政治犯も救われる事が悲願とされている。が、念仏(呪文)信仰による救いであり、否定する必要はないが、こんにち薬師如来信仰によって救われようとする人は少ないと思う。 また、救いの為の人々の努力目標に欠けている。薬師如来の名を唱えるだけで万人の願いが叶うとされているのです。人間のあらゆる苦悩からの解放が、仏陀に成ろうとする努力の中にもたらされるという教えが希薄である。 仏陀に成る事とは、人間である事に気づき、目覚める事としてよい。
「無数の関係の間」に存在しているものとしての人間に気づかんとする営みは、仏陀に成ろうとする営みに等しいと私は考えます。知識や技能を身につけて野球選手や先生や何かに成る事ではなく、すでに人間として100パーセント完成されている事に、驚き、感謝する事である。私達は、すでに人間として100%完成している。だからこそ、野球選手にも先生にもなる事が出来るのです。人は、何になっても良いのです。ただし、いつも「人間に成る事」を忘れずに。この事に本当に気づいた時、すごい野球選手や先生や 何かに成る事が出来るでしょう。
こうした気づきを忘れた営みは、絶えず欲求不満にかられ不安と不幸を生む。現代の医療と福祉の核心でもある。 単なる身体の病気治療の医療は、人間を堕落させ人間を忘れさせる。物や金を与えるだけの福祉がそうであるように。すなわち、私達が大自然や社会やらの無数の関係の間(ま)に住まい、活(い)かされて生きている人間を忘れさせ、人や社会や自然を狂わす危険性を秘めている。今の日本のように!
病気は、私達が人間から外れそうになった時の危険信号であり、ありがたいもの。私達を、絶えず本来の人間に回帰させんと訴え教えさとそうとしているのである。真の医療は、単に身体治療をするのではなく人間に目覚める事に向かうべき。より正しくは、身体治療を通して、人間である事の気づきによる全人的救いに向かうべきである。

聖徳太子(574~622)は、日本を美しい仏国土にせんと命を張った。 太子は興福寺(天王寺?)に悲田院(ひでんいん)をつくり、貧民や病人を癒したという。そこに私共、慈悲を感じることは出来るが、しかし、「空の教え」に根ざした 「空の医療」 は伝わっていない。

A.シュブァイツアー(仏1875~1965、1952ノーベル平和賞授賞)は、イエスの神の愛に召され、仏教に共鳴して「隣人愛」と「生命の畏敬」を唱え、アフリカでの医療に従事した。 しかし、その病理観と医療は、ドイツ医学に基づくものであり、キリスト教や仏陀の教えに根ざしたものではない。

野口英世の研究は、その病理観は近代西洋病理学に基づくもので、それ以上に、思想的に深いものはない。 ないから問題ではある。 深いものがないのに有名になったのはなぜか?「英語達人列伝」(斉藤兆史著、中公新書)に見られるように、日本の明治以降の富国強兵策における立身出世のあおりによって生まれた虚像であるといえましょう。( 彼の借金の未返済、アメリカでの学歴詐称や論文捏造等のスキャンダルは愚劣だし、ここでのテーマではないので深入りはしない )。

これまでの近代西洋病理学の業績は、大きいものがある。しかし、さまざまな矛盾と限界を呈している。 この病理学こそ 「根源的関係の病理観」 と 「空の医療」 に組み入れるべきである。 実際、近年の日本の医療の概念が変化し、私共の主張に近づいてきている。 かつての成人病を 「生活習慣病」( 日野原医師が提唱) ととらえ直したのがよい例である。病気を単独にとらえて病気だけを処置するのではなく、病気を生活全体の中でとらえて、病気にならないように努力しようとする姿勢と病理観が見られる。
「根源的関係の病理観 と空の医療」の確立が強く求められてある。
「後編」
あらゆる病気は、等比例の関係にある。「等比例の病理観」としたい。その人の体力、生命力が強くてクリーニングされておれば、病気にならない。 逆だと病気に成る。私達の身体に、病が生まれる条件や環境があるから病に成る。 よって、自らの身体の条件と環境を改善すればよいのである。あらゆる細菌やウイルスの病気も同じ。私共、根源的には、細菌性、ウイルス性の病気と非細菌性と非ウイルス性の病気は、同じ要因、原因があると見ている。以下、具体的に述べたい。

(1)人の心身のエネルギー = 間違った精神生活、間違った食事、冷え、過労、ストレス、酒、たばこ、薬害、事故による傷害等。
これは、人の心身のエネルギー状態が、間違った精神生活、間違った食事、冷え、過労、ストレス、酒、たばこ、薬害、事故による傷害等のエネルギーに等しい関係にある事を表しています。まぁまぁの体調。

(2)人の心身のエネルギー > 間違った精神生活、間違った食事、冷え、過労、ストレス、酒、たばこ、薬害、事故による傷害 → 健康。
これは、人の心身のエネルギーが、間違った精神生活、間違った食事、冷え、過労、ストレス、酒、たばこ、薬害、事故による傷害等を上回っている状態→ 健康が維持、増進出来る状態。

(3)人の心身のエネルギー < 間違った精神生活、間違った食事、冷え、過労、ストレス、酒、タバコ、薬害、事故による傷害 →不健康。
これは反対に、人の心身のエネルギーが、間違った精神生活、間違った食事、冷え、過労、ストレス、酒、たばこ、薬害、事故による傷害等を下回っている事→ 健康な状態が維持増進出来ない状→不健康、病気に成る。

以上に対処する医学を「等比例の医学」と名づけたい。 あらゆる病気は、特に感染症は 「関係の間」 に発病するものである。自己の内部環境が悪いから、ウイルスやら細菌などの病原体が身体に入った時に住みつき、繁殖し、爆発して発病するのです。 花粉症も同じです。 病原体が悪いんじゃない。 その病気にかかった自分が悪いのです。 近年、人間中心主義と科学の浸透によって、病気の原因を細菌やウイルスや花粉やらの外部に求める姿勢と考え方が、当たり前に思っているが、大きな間違いであったのです。

もし、病原体が100%悪いのなら、100%の責任が病原体にあるのなら、私達の100%の人々がその病原体に感染し発病するでしょう。実際にはそういう事はない。病気を病原体のせいにするのではなく、自己の内部環境を良くする事に努めるべきです。 特に、排泄をよくして、体内のクリーニングに努める事が大事です。体内がきれいであれば、病原体が住みつかず、繁殖せず、病気になりません。よって、「感染説」は、いわば半分は正しいが半分は間違っています。
具体的には、快食、快眠、快便に努める事です。 これが、健康の絶対基本です。この三つに大いに喜び、感謝しましょう。 快食とは、おいしく食べる事が出来る事であり、ゆっくりよくかんで食べる事、「腹八分目」 が大事。この際、命を戴いているので ”おそれとおののき”の念を持ちたいものです。

食事は単にカロリーや栄養やグルメではない。 「生命のやりとり」 の一大事なのです。 快眠とは、熟睡する事です。 悪いイヤな夢が続くのはよくない。 全身が、特に、心臓が疲れた時に悪い夢をみる事が多くなり、いっそう心臓を疲れさせるという悪循環に陥ります。この悪循環は、断ち切らねばなりません。

全身の疲れ、特に、心臓の疲れをとる治療によって、熟睡し、悪い夢を見なくなります。 追いかけられる、亡くなった人が毎夜、枕元に現れるといった悪い夢が、当院の治療後の夜から消えているというケースを何人もみています。 2,3年後にまた夢見が悪くなって当院に来られて治療すると、やはり、その夜から悪夢が消える。 悪夢にうなされるのは、むろん、いろんな外的要因もあるが、心臓が疲れきっている時に多いものです。

自然ないい治療で熟睡し、身体が良くなり元気が出れば、心も強くなり、大きな困難も小さな困難に思えるようになり、案外、楽に克服出来るものです。近年、とみに話題になる精神障害に、うつ病があるが、ヘトヘトに疲れているので、疲れをとる治療が第一。次に、内臓と頭の治療をする。内蔵は特に○と○がポイントです。 酒を飲まずに甘い物をたくさんとっている人もうつに成り易い。 リウマチにもなりやすい。

夏目漱石やヘルマンヘッセ(1877~1962;ドイツの作家)もそうでした。 精神も不安定になり、作品も危ういものになります。 漱石はうつの天才と言われ、彼の文学はうつの文学と言われていますが、実はまんじゅうが大好きで、おなかがもたついた事による 「まんじゅうの文学」 です。 慢性胃炎に苦しんだので、うつ病になるのも当然です。 だから、彼の文学には、社会や歴史や天空への開けが少なかったのです。(本人も周囲の人も分かっていなかったが)。 こころの病も、身体からのアプローチが大事で回復がずっとはやいものです。

ただし、薬物療法では限界があります。 真の健康には成れないからです。 “薬” という漢字はすごい。 草かんむりに楽と書きます。 楽にさせる事が目的であり、また限界なのです。 これは単に漢字の語呂合わせではなく、こんにちの日本の現状を端的に示していましょう。 薬物療法は、ちと重い神経痛や慢性疾患に対し、殆どがお手上げの状態である。 薬は、急性の痛みや炎症をくい止めてくれる、いつでもどこでも気軽にのめる利便さがあるという点で有効です。 が、慢性化したものの根本改善という点ではもの足りません。

C.ユング(1875~1961;スイスの精神分析家)の「夢分析」による精神分析にも、興味深いものがあるが、本当に救いになるのか、現実に苦しんでいる人を救う力になるのか? というとはなはだ心もとない。 先ず、身体が抜けている。 心だけを強調しているが、心だけで生きている人がこの世にいましょうか?ユングの夢分析は、その人の心の奥にある問題や苦悩を夢の分析によって発見し、その人を解放させようとするもので、いろんな解釈が可能で一見おもしろそうで深いようだがもの足りなさが残る。ユングの本がおもしろい事と、現実に苦しむ人が救われる事は同じではない。

むろん、過去の暗い体験やストレス等の問題が身体に影響する事はある。 しかし、それらは夢分析をするまでもなく、分かる事です。(M.ブーバーのユングとの真剣な対話が 『対話の倫理』(創文社)にある)。

深層心理学の創始者といわれるフロイトの深層心理学の出発点:身体的には何の問題もない人が、さまざまな身体的異常を訴える症状をフロイトは「神経症」と名づけ、無意識の深層心理の研究を開始した。しかし、この出発点にそもそも問題がある。フロイトは医師だが、「身体的に何の問題もない」 とするその根拠は何か? 問題がある。 この問題は、現代の一般的常識的科学的医療では、今も未解決のままである。

フロイトから100年がたった今も、科学的に原因不明の病気が圧倒的に多いのです。 たとえば、腰痛一つをとってみても、画像診断その他科学的につかめるのは10%未満で、心因性によるものが約10%、残りの80%が原因不明という(福島県立医大、NHKスペシャル)
私見では、筋肉疾患は、現代の科学的検査に出にくいので見過ごされている上に治療法が湿布なので、心もとない。

現代の科学的検査を総動員しても、腰痛の10%しか原因がつかめていないのです。 その他、現代の高度先端科学医療機器による検査に出ない病気がいっぱいあります。患者さんの訴えを第一にせず、検査の結果を第一にして判断すると 「逆さま」 になる。 科学的医療検査でつかめる身体的病気は、実は一部なのです。 頭痛も同じ。 画像や脳波に明確に出る異常は、ごく一部なのです。 残りの不明の病気を 「心因性」や「老化」、あるいは「不定愁訴」(ふていしゅうそ)ととらえる事には、疑問が残る。

うつ病について、まとめると
(あ)心身は一体で、分離できない。
(い)身体の異常は、抗うつ剤と安定剤では解決できない。
(う)現代の科学的医療検査でつかめる身体の異常は、一部である。
(え)身体の異常に対する薬物療法は、根本治療にはならない。
(お)心やストレスの問題を踏まえながらも、身体に必ず問題があるので、身体の異常を見つけて治療し、身体を良くする。ただし、自然な根本治療による事。身体がよくなると、元気が出てきて、心も強まる。さまざまな問題にぶつかっていける。そして克服していくのである。

上記の(お)が理想的。こんにちの世間の常識的見方と治療には(あ)~(え)の問題があるので、迷路に入り込む。上記の「身体の異常を見つけて治療し」の異常の見つける方法は、当院には数種ある。 いずれも、現代の科学的医療の検査とは異なるものです。治療は症状によって変えます。 薬物は一切使いません。 うつ病で寝込んでいた人が、数回の治療で元気はつらつになり、職場復帰した例がたくさんあります。うつ病について → 【 適応症の後半。カテゴリーのすくい 】

深層心理の探究は、インドの無着(むじゃく)、世親(せしん)兄弟(4,5C)に始まる唯識仏教の「阿羅耶識(あらやしき)」に深いものがある。鈴木大拙(すずきだいせつ;1870~1966。禅の悟りを英訳して世界に広めた)が、当初はユングとの親交があったが、しだいにユングから離れていった。これは当然と思う。次元が似ているようだが、違っていたのです。両者の説く「無意識」に大きな違いがあったのです。 大拙さんは禅仏教の 「絶対無」をくぐり抜けた全的自己の確立を目指したのです。 ユングとは、ここに大きな違いがある。

ところでしかし、心の問題を広くひろめたフロイトやユングの業績には大きいものがある。 対して、唯識仏教に元気が無いのは残念だ。 深いものがあるのに広まっていない。 唯識仏教の阿羅耶識(あらやしき)が、大学院の心理療法士のカリキュラムに入っていないのも残念。フロイトやユングの1600年も前に、既に人間の無意識界の深い洞察(どうさつ)がなされていたのに。

快食、快眠、快便の中で、特に大事なのが快便。 快便とは、バナナのような排便で、お尻がきれいである事です。 お尻が汚れた鶏は、卵を産めなくなり、1、2ヵ月後には死んでいきます。 人のばあい、便秘薬などで対処しているので、便秘によって2,3ヵ月後に死ぬ事はまれだが、便秘は大敵で、生命に関わる事である事には違いありません。 便秘薬は、人の死を防いでいるという点では、いわば”生命の薬”であり、その功績は大である。

しかし、短期間の使用は良いとしても、長期的に常備薬として使用するのは問題。 便秘薬に頼っている状態は、内臓が充分に働いていない事を示しており、その排便もうわっつらで真の排便ではありません。 便秘薬に頼らない自力の快便に努めるべきです。

快便と共に、快尿(かいにょう)、快汗(かいかん)、快息(かいそく)、女性は快生理(かいせいり)が非常に大事です。いずれも造語で、快尿とは、こころよい排尿であり、快汗とは、暑いときにはさっぱりとした汗が出て、こころよい事です。中には、真夏の猛暑日にも汗が出ない人がいますが危険です。病気の根が深い。ベトベトした汗もよくない。 快息とは、胸のつかえのない快い呼吸であり、快生理は、リズミカルで生理痛がなく、不快感がなくすっきりしている生理。

いずれも、こころよい排泄(はいせつ)を意味しています。 排泄をよくして、身体がクリーニングされると、細菌やウイルスが体内に入っても住みつかず、繁殖しません。 また、非細菌性や非ウイルス性の悪い細胞( 癌 )も生まれにくくなります。 以上の快食、快眠、そして快便を含めた五つの排泄は、非常に大事です。 これらをまとめて私共、「排泄の医療 」と名づけています

それには、(a)健全な精神を持ち、(b)限度を超えたムリをせず、(c)適度の食事と運動をして、(d)身体を冷やさない事です。各自が自分の心身の改善に真剣に努める。(e) 自然な健康法や治療に努める。快食、快眠 快便の三つのために(a)~(e) の五つの努力をする。 併せて「排泄の医療」(快便を含めた五つの排泄)に心がける。この事に個人が社会全体が努めれば良いのです。

こうした当たり前の事が、ずっと見過ごされてきました。近年、ようやく「生活習慣病」が唱えられるようになり、大きな進歩です。たが、まだ不十分であり、不徹底である。病気の約半分を占める感染症をも含めた全ての病気に対処するには、至っていない。 哲学的思想的裏づけが弱いためである。だから、インフルエンザに騒ぐのです。 従って、この論述も、この後半の論述の土台である前半が大事です。後半は、方法であって、土台ではありません。

次に、最も単純な驚くべき秘跡(ひせき)を示したい。私達が、とかく忘れ易い単純な医療を通して。 最も単純な驚くべき秘跡とは、自然の大いなる恵みをはっきりと知る事です。 私達は、人間であり、ホンモノのリアルな人間に成るべきだという摂理(せつり;天の法則)を知るべきです。 リアルな人間とは、歩く事、語る事、食べる事、仕事をする事、寝る事、一挙手一投足の全てにわたって、生き生きと輝いている人です。 むろん、努力して頑張ってでなく、ごく自然にです。 皆さんお一人お一人が、全宇宙150億年の歴史の 結晶なのです。2010.6月
龍樹(インド150-240?)

I.カント(独1724-1804)

E.フッサール(独1859-1938)

M.ハイデッガー(独1889-1976)

M.ブーバー(オーストリア1878-1965)ブーバーの「我と汝」(1923)は、現代の時代苦を「私とあなた」と「私とそれ」の2つの原初的関係性に求めた不朽(ふきゅう)の名著➡「治療法」

「根源的関係の病理観と空の医療」No2 . 2017. 秋

NHK総合TVの「ドクターGメン、総合診断医」という番組をご存じと思います。3人の研修医を先輩医師がリードして、様々な病気を総合的に診断して正しい病名を導き出す番組。始めに、病人の病気発症の経過をDVDで流し、それを手掛かりに3人の研修医が1回目の診断名を出す。次にその病名を病理的検査データと照合し検証し、中間診断をする。更に検証し、3回目の最終診断による正しい病名を出す。

「こむら返りの原因は何か?」について放映された(H.25年秋)。ある女子大生(以下Pさん)が就活で会社に面談に行く途中、「ふくらはぎのこむら返り」を起こして約束の時刻に間に合わず失敗の繰り返し。血液検査ではビタミンK不足。食後食べたものを吐く。さて、この病名は?3人の研修医はたいそう難しい病名をかかげました。先輩医師の最終診断は「拒食症」でした。それで、心療内科を勧めたがPさんは受け入れない状態が続く中、Pさんは転んで腕を骨折。ようやく1年後にPさんは心療内科に行く事を決意。「信頼関係が大事です」という先輩医師のコメントで番組終了。ふくらはぎのこむら返りと拒食症はどうなったのか、全く不明。

その頃にやはりNHKの朝の連続ドラマの後で「ふくらはぎのこむら返りの最新情報」について放映されました。冒頭、「世界中で、この症例に関する研究がなされていない。が、画期的な発見がありました」に始まりました。「ふくらはぎの筋肉の結び目にトラブルが起きている」といった説明で終了。治療法についての説明もありませんでした。二つの番組とも、「なんじゃこりゃ」という感じでした。まず、こむら返りは、ふくらはぎにだけ起こるものではなく、下腿の外側、内側、前側。大腿の内、外、前、後、更にそれぞれの間(斜め)にも起こる事を認識しておきましょう。

Pさんの話に戻りますが、第一にふくらはぎの痛みを取ってあげる事。当院では1回治療で取れてます。あらゆる部位のこむら返りが1~2回治療で完治です。拒食症は、お腹全体と交感神経と肩~頭の緊張を取ってあげる事。手足の冷えも影響するので、あれば取ってあげる事。心理面でのストレスがあれば端的にアドブァイスするが、これは第2ステップに位置づけてよい。第1ステップは先ずは体をよくする事です。今の日本ではストレスは当たり前、ストレスに立ち向かい楽しむようになればOK。それには、健康で元気でなくてはなりません。

(1) 究極の問題は「病気の名前付け」

「ドクターGメン、総合診断医」のみならず現代医療は先ず、「病気の名前付け」にやっきになっています。様々な症状から病名を特定する事に総力をあげています。しかし、究極の医療には、病名は全く不要です。また、今日、病名をつけて手術か薬かに振り分けられています。多くの場合薬物療法が主になっていますが、この薬が西洋の化学薬品である事に注意したい。分子構造が明らかで効果が認められる事が絶対条件です。つまり、特定された病気に対して確実に効果が出なければなりません。これは、鍵(薬)と鍵穴(病人の病原体)の関係にたとえられます。鍵と鍵穴がマッチすれば効果ありで、マッチしなければ効果なしです。この研究には厳密さが求められるので、時間がかかるわけです。

ここで問題にしたいのは、病気の特定と薬の特定という二つの特定に向かっている事です。鍵と鍵穴が特定され、その設計図が正確であればあるほど効果が高まり、いい薬と見なされています。医師は症状の特徴から病名を診断し、それに合う薬の学びと暗記に努力し、病人の症状に合った処方をして経過をみます。今日、こうした営みは当然であり、自明の事とされています。

しかし、万物は絶えず変化しています。変化しない物はこの世にありません。生命も絶えず変化しています。生命がもしも変化しなければ、貴方の心臓は止まります。そもそも貴方の誕生もありません。「生命は変化であり、変化こそが生命」です。従って、ある物を特定して「これだ!」と決めたその瞬間に「これでなくなる」のです。過去化した物は現実とのギャップが生まれます。私達の体も絶えず変化しているのであり、病人の症状も絶えず変化します。従って、病名と薬は絶えず過去のものになります。ここに、現代の病理学と診断学、薬理学の究極の決定的間違いがあります。即ち、病気の本質(本体)と現代医療との「間の違い」があります。ワクチンも同じ。インフルエンザワクチンがよい例で、来年、流行しそうなインフルエンザの型を予想して前もって作るのですが(事前に作っておかないと数千万人分は間に合わないので。昨年は事前に4社に国が委託)、この予想が外れると効かないし、予想が適中してワクチンがマッチしたようにみえても効果に疑問が残ります。一昨年のインフルエンザワクチンは香港型で、型は予想にマッチしたのだが、香港型のインフルエンザウイルスが微妙に変化していたために効果が薄かったというのです。毎年、インフルエンザワクチンを受けたのにインフルエンザにかかる人や亡くなる人が出るのも当然です。

ウイルスだって生き延びるのに必死で、生き延びる事が出来るように変化します。ワクチンに対する耐性もできましょう。病原体(鍵穴)と薬やワクチン(鍵)とのミスマッチはつきものである事を私達は認識せねばなりません。子宮けい癌ワクチンがよい例です。マラリアの薬の開発は、第二次世界大戦時のアメリカ軍の至上命令で開発に成功。しかし、40年後のベトナム戦争の時には、この薬が効かなくなっていました。飛んで媒介する蚊が相手で、ジャングルで戦う兵士にとっては深刻な問題でした。アメリカの軍と大学の総力をあげて薬の開発に挑み、成功しました。しかし、20年後に再び耐性菌が出来て現在もいたちごっこが続いている。。こうしたミスマッチの根源は、病気(病原体)の固定化と病気の名前付けによる固定化にあります。

–「道」が語りうるものであれば、それは不変の「道」ではない。「名」が名づけうるものであれば、それは不変の「名」ではない。天と地が出現したのは「無名」(名づけえないもの)からであった。「有名」(名づけうるもの)は、万物の(それぞれを育てる)母にすぎない。(「世界の名著、老子、荘子」中央公論社)–

なんと2500年も前に老子という哲人が断じていたのです!! 「道」という全宇宙の本体がこの世の現象界に現れるそのものの当体を言葉にしようとすると、「道」から離れてしまう。「道(本体)」と「この世の出来事(現象界)」との関係を、人は名前付けして沢山のことばを使って説明しょうとするが、どうしてもムリがある。そもそも、ある一つの事物(事と物)を言葉によって名前付けする事自体にムリがある。一つの事物は事物であって、言葉ではない。貴方というが存在が、生命体が、貴方の名前ではないのに同じです。この点で、言葉はあくまでも仮の便宜上の道具です。「言葉はコミュニケーションのツールである」と英語学習でよく耳にしますが、しかし、言葉についてのこれ以上のコメントが全くないのは浅はかです。

(2) 名前付けの根底に名前付けが出来ない次元あり

ひとと動物の一番の違いは、言葉を使えるかどうかにかかっている。ひとのひとたるゆえんは、言葉を使えるかどうかにかかっている、と言われている。よちよち歩きの幼児が、言葉を一つずつ覚えていく様は驚きであり楽しいものです。子供が話す言葉が増えていくのをみて、人々は子供の成長をおしはかる。これは、間違っていません。英語学習にしても、英単語を覚える事は必須です。しかし、間違いを犯す危険性大です。言葉は「事物そのものの当体」を現してはおらず、仮の便宜上のものにすぎないという認識がないと、大間違いを犯す。物理学における科学的数量化も同じです。宇宙は、地球は、自然は、数字ではありません。現代医療の血液検査も同じ。血液の数量化による検査が絶対化されているが、血液も数字ではありません。これらは人類の避けがたい宿命的間違いで、それゆえに声を大にして叫ばねばならないのです。

「我々が生きている生活世界は、喜怒哀楽にいろどられた世界であって、物理的数量的世界ではない。ガリレオは、数量的発見者の天才であると同時に、数式の衣(ころも)で自然と我々の生活をおおい隠した天才でもある」と主張した哲人E.フッサール(独1859-1938数学者、哲学者)のことばは重い。(世界の名著、フッサール、中央公論社)

それでは、ことばは全く意味がないのでしょうか? No!です。ことばは、事の本体の葉を現す「事の葉」であり「言葉」です。また、事の本体の一端を現す「事の端(は)」でもあります。よって、ことばは単に「コミュニケーションのツール」だけにとどまるものではなく、「事の本体を現わさんとするもの」であり、「事の本体を指し示す案内人」です。言葉という案内人に導かれて、私達の対が成り立っています。

分別知の根底に無分別智あり。野口英世はアメリカのロックフェラー研究所にもぐり込み、梅毒の培養に成功した事によって、つまり「梅毒の特定」に成功した事によって注目された。黄熱病の研究、克服のためにアフリカに渡り、「黄熱病菌」を必死に追求し、その菌の特定に成功したと思い薬を開発、成功したかのように思われてノーベル賞授賞の候補にあがったが、その薬を試したところ失敗。間もなく彼自信が黄熱病にかかり死亡。彼の最後のことばが、I do not know であったという。問題はここです!! 彼のいう know が決め手です。この know は、西洋近代科学の次元での知です。この知は確かに一つの有効な知であるが、知の全てではないし、更に重要なのは、この知の根底にはこの知を超えた次元がある事です。西洋近代科学の次元は「分別(ふんべつ)」の次元で、その知は「分別知」です。ある病原体の型やら構造やら性質やらを追究、決定する。特定する。そしてそれに合った薬やワクチンの開発をする。その薬を試してうまくいけば成功とする。野口英世は西洋近代科学の「分別知」によって「梅毒の特定」には成功したが、「黄熱病の特定」につまずき、命までも失ったのです。

それは、黄熱病の病原体が細菌でなくウィルスであったためです。当時は、顕微鏡が光学顕微鏡で電子顕微鏡はなかったので、細菌よりも小さいウィルスの存在をつかむ事が出来ませんでした。それで、正確な黄熱病ウィルスの構造と型を特定出来ず失敗したわけです(電子顕微鏡がドイツの物理学者によって発明されたのは野口英世の死後5年後)。こうした事を60年も前のかなりませた私の友人が指摘し「当時、電子顕微鏡があれば黄熱病薬剤に成功し、ノーベル賞をもらえたんだ」と言いました。今も評論家がこのコメントをしています。これらはもっともだが、いずれも「分別知」の次元です。ips細胞の山中教授が「我々が人体について知っているのは、わずか10%」というコメントも西洋近代科学の「分別知」です。NHKの「ドクターGメン、総合診断医」の病名を当てる番組も同じです。3人の研修医が最初に掲げる病名が、最後の診断名とくい違って外れている事が多いのですが、これは誤診で間違った処方をするという事です。通常、多くの人は、「若い研修医の勉強不足のため」と見なすでしょうが、私は No!です。最終診断名を下す先輩医師の病名が、果たして正しいかどうかも怪しいが、私共が最も問題にするのは「病名をつけて、病気の現象の結果処置に終始している事」です。「病気の本体」にストレートに入っていない事です。

例えば、私は、触診で胃にシコリをつかめた時、患者さんにもシコリをつかんでもらって確認後、直ちにシコリが取れる治療に入り、帰りには無くなるようにやります。ストレスや過食や冷たい飲み物等をチェックしながら。この際、このシコリが何なのか、細菌性かウイルス性かそうでないのか、悪性か良性か? といった事は全く無関係。何であろうが、取れればよいのです。異状が正常になれば全てOK。また、しばしば見られるのが臍の奥に数㎝の岩のような塊。何十年も病院通いしながらも、一度も指摘された事がないと皆さん言います。食欲がない状態が長年続き、やせて色んな病気で苦しんだ方々です。数回治療によってシコリや塊が取れると皆さん、食欲が増し、太り、元気になってます。これが言わば「無分別智による無分別医療」です。

「無分別智による無分別医療」によると、電子顕微鏡などなくてもウィルス病原体の病気治療も出来ます。実際、私共、血圧計だけでインフルエンザや多種の肺炎や肝炎の完治に成功しているのです。それも数回治療で。「無分別智」はしかし「分別知」と一体のもので、「分別知」の根底に「無分別智」が必ずあります。「無分別智」のない「分別知」はありえません。ですので、「分別の無分別、無分別の分別」と伝わっているのです。「無分別智」は、2500前の釈迦牟尼仏陀の「空」と老子、荘子の「無」の教えが融合して、臨済の「不立文字(ふりゅうもんじ)」に流れ、道元、江戸時代の白隠や「ばんけいの不生禅」に流れ、西田幾多郎や鈴木大拙の禅思想に伝わりました。こうした「無分別智」こそが、世界に誇り、世界に通用する至高の智恵です。これらをここで詳しく述べるのはやめますが、「不立文字」について少し触れたい。

事物の本体(本質)をことばで現す事は不可能であるゆえに、「文字を立てず」(文字を使わず)と断じたのです。出来る事は、「本体に向かって指を指し示す事」であるとしたのです。

✳「物は豊になったが、心が貧しい」は本当か? –日本人についてのこのコメントをしばしば耳にしました。けれど私は思います。「物が貧しくて、心も貧しい」と、、確かに、物があふれています。会津の田舎町にも大型ショッピングや電器店があり、ドラッグストアやホームセンターがあり、コンビニがあり、家の中も沢山の物であふれています。冷蔵庫も満杯で、ドアを開けると悪臭が、、、(これはアチャラの話で、皆さんは違うと思いますが)。➡未完

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