―東西両医の哲学・宗教・科学の超克(ちょうこく)による「医の革命」の試み―
※コロナ肺炎ウイルスはちっとも怖くありません。歓迎します。当院では、風邪やインフルエンザに同じく1回治療後にスッキリ・サッパリ。通常、2~3回治療によって治癒します。味覚・嗅覚障害も同時に治癒。2~3回治療によって「患者さんの不安が消えて安心」は、私どもの喜びですので歓迎します。
※近年、心身のバランスを崩しておられる方が増えています。代表的なのが、「躁うつ病」ですが、当院では通常、10回内治療によって治癒しています。詳しくは→「そううつ病について」をご覧下さい。
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下記は、『新しい医道の樹立に向かって』の5年越しの400字原稿用紙1,000枚を超えた学位論文の概説である。
※ここでの論述は、大事故による傷害は除きます。あくまでも「病気治療」です。
「医の道」を歩んで40年。7万人の患者さんと出会い、遂に「究極の医の道」が開かれた。人類有史数千年の悲願であった「万病の克服」がここに実現されたのです!? それも、一切の検査機器及び薬物なしによって。
(1) 新患の
(a)末期を除く万病の10回内治療による99%が治癒・改善。それも、
(b)2〜20もの複数の病状の同時治療による同時治癒が実現。割増・追加料金なし。
(c) 当初の10回内治療によってきちんと治癒した方(旧患)のその後の高血圧症、痛風、腰痛、頭痛、様々な炎症・潰瘍といった万病が、通常、1〜2 回治療によって治癒。
ある病気が治っても、生きているかぎり様々な病気にかかるもの。ムリはよくないと分かっていてもムリをせねばならない時もあるのが人の世の常。ストレスも多い。しかし、こじれた病状を除く万病が、1〜2回治療によって治癒する事は愉快なり。
(d)虫歯等の歯痛は除く。(但し、当院での定期的をされている方は、虫歯になりにくく、従って、当院の患者さんは、歯医者に行く回数が極端に減っています。歯ぐきの治療は全くしていないが、内蔵中心の施術が、あごや歯ぐきに好影響を及ぼしているようです。歯も歯だけでは出来ていない。全身的連関の中で出来ているので、さもありなんです)。
但し、
(a)「10回治療による99%治癒・改善」は、約90%以上の方が治癒。残りの約数%が改善です。改善がみられれば継続治療によって治癒します。根が深い病気、ひどい冷えが心身に入っている場合、いろんな治療を受けて”クセ”がついている場合等は、治癒までの治療回数が増える事があります。
(b)中途半端な患者さんは勿論、末期の病気、過重労働や強いストレスに見舞われていてそれらを改善出来ない方は除きます。
(c)健康と病気は「天秤ばかり」や「シーソーゲーム」にたとえる事ができます。心身に良い努力をすれば健康に、悪い努力をすれば不健康・病気になります。従って、良い努力をすれば良いのです。
当院のHPや論文に表明してあるが、癌を含む170余の病状の治癒回数を( )に明記してある。コロナ肺炎やインフルエンザは、2,3回治療によって完治。味覚・嗅覚障害も同様である。この表明にウソはない。こうしたウソはすぐにバレルし、会津の磐梯山麓での40年の営業は不可能でありましょう。東京や他県から当院に来院される方もいまい。又、健康保険を適用せずに、初診料なしの治療代が毎回6,000円なので、10回内治療で6万円内。車検の半値以下。従って、世間に噂される誇大宣伝・広告による詐欺まがいの医療ではない。詐欺になりようがありませんね?
(2) 1、一切の検査機器不要(病気に限る。大事故による骨折や出血の傷害は除く) 2、一切の薬物不要 3、病名不要 4、科目別診療不要 5、一切の治療機器も不要(注)。 以上が実現されてある。
(注)上記「5、一切の治療機器不要」は、「手当や手技療法」によって施術する「究極の療法」である。ここには書ききれないが、この療法には奇跡的なドラマがたくさんある。しかし、施術後に施術者である私が、激しい頭痛やめまいに襲われるといった危険性があるので現実には医療機器を用いている。病人の凄まじい energy を私がかぶる危険性を避けるためである。
(論文には控えたが「遠隔治療」も可能。遠隔での患者さんと私の同時時刻での施術による治癒を目指すもの。医療機器不要)。
(3)当院の医道は、上記(2)の通常は信じられない5項目の条件の下、上記(1)の「医療の道」が実現。将来、これを超える医が、1,000年後に現れるかどうかの「奇跡的な革命の医道」である。
いや、本当は奇跡でも革命でもなく、自然で当然の医道である。天・地・人の「縁起の摂理(えんぎのせつり)」に根ざした「自然・当然」、即ち、「自が然らしめられてあるその当の医道」である。即ち、みずからがしからしめられてあるその当の医道である。従って、私の自慢話でもなければハッタリでもない。
※真剣に苦しむ方の来院をお待ちします。「後世に残る物語づくり」を目指しています。
※私達には本来、水や衣食住、水がタダで与えられてある。私達の1日の空気の吸引量が18ℓ!18kg。目、耳、鼻、舌、皮膚も五臓六腑も全てタダで与えられてある。心臓は、休まずに動いている。手足もタダで随時動いて、他者(人、自然、様々な事物)との交わりが出来て様々な文化をつくっている。驚き、畏れ、感謝しましょう!
米大リーガーの大谷翔平選手の驚異的身体能力と記録に対する讃美が止まらない。私も応援している。しかし、Just a moment! 実は、皆さん、おひとりお一人が凄いのです。手足が動き、毎日様々な仕事をなしている私達の全員が驚きであり感謝なのです!
お互いに語り合える。共に食事ができる。共に歩ける。共に仕事ができる。約束の時刻に当院に来院。約90分、私に心身を委ねる・・・何と凄い事でしょう! 病気にも感謝。病気は天地の警告。「私達は病人に成る事が出来る。故に、健康者に成る事が出来るのです。医療が成り立つのです」。
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< 要旨 >
『新しい医道の樹立に向かって』 2023,1,3 渡部 至
──東西両医の宗教・哲学・近代科学の超克による「医の革命」の試み──
本稿の要旨を一行でまとめると、「西洋近代科学医の宗教と自然哲学から独立した事による進歩と行き詰まりを超えた「新しい医道の樹立の提示」になる。
西洋の近代医学と医療が、宗教と自然哲学との闘いを経て独立した経緯があるが、ここに、近代医の功績があり欠陥がある。近代医のおかげで、根拠が不確かな迷信や呪術医を克服。「ペストにかかったら粘土を食べて解毒」、「切断部位への焼灼療法(焼き火ばしで焼く)」等の無謀な治療も除去された。化学の進歩と顕微鏡の出現によって発達した近代科学医の功績は大である。感染症に対する特効薬の開発にも成功。外科治療の進歩も忘れてならない。
しかし、近代科学医の華やかな成功が見られる一方、コロナ禍にみられるように、こんにち、様々な限界と歪みが露呈されている。1969年、アメリカ公衆衛生局W・スチュアート長官の「感染症の時代は終わった」という高らかな宣言が虚しく響く。その大きな要因に、近代科学医の宗教と自然哲学からの離反による「医の哲理」の希薄さがあり、近代科学医の流れを汲む現代医の限界がある。
近・現代西洋科学医が、病気の現象面の結果の説明と対処に終始していて、病気の本質的根源に達していない現実がある。
最先端の医療機器を装備してある大病院に、医師を始めとする優秀なスタッフが何百人、何千人いても、その医が宗教と哲学に疎く、全員が近代科学医の次元で同じ学びをして、健康保険診療報酬の点数とにらめっこしている医療では、近代科学医の限界を突破できない。近代科学に根ざす近代医を超える手立ては何か?それは、確かな宗教と哲学にしっかり根を張って、近代科学医を包摂して余りある「病理観とその医」の道筋を究め、その「道」を示す事にある。
しかしながら、現代に、加持祈祷、読経、呪術等を基盤にする宗教を復活させ、医療を委ねる事はできない。ここでの宗教が問題で、誤解を生み易い。とりわけ、こんにちの日本人には、一般に、宗教に対する強い拒絶反応がみられる。
神道には長い貴重な歴史があるが、教義の深みに欠け、明治期に歪められた歴史がある。伝統仏教は、歴史ある故の固定的教義の呪縛からの解放がなされておらず、葬式仏教からの脱却もなされておらず“老化”が進んでいる。新興宗教は、教義にもの足りなさがある。キリスト教は、一般の日本人には馴染まないものがある上に、深刻な「神の死の問題」がある。更に、我々は、オーム真理教の不幸な事件を見聞した。「オーム真理教は、恨みを晴らそうとするテロ集団であって、本当の宗教ではないのだ。「宗の教え」を学んで豊かな人生を!」といった説得もかすんでしまうほどの大事件であった。
一方の哲学に対しても、理知性よりも情緒性を好む日本人一般の受けはよくない。西洋哲学の限界も見えてきた。ソクラテス、アリストテレスからトマス・アクィナスに流れた巨大な形而上学の問題と限界が、ニーチェやハイデガー等によって痛烈に露呈されてある。加えて、我々は日々、強欲経済と科学・技術の荒波に見舞われている。かような状況下、「宗教と哲学に根ざした近代科学医を包摂する「医道の可能性の提示」」には、多くの困難が伴う。しかしながら、それでもなお、「医が宗教と哲学から離れると浅薄になり行き詰る。宗教・哲学・近代科学医の超克と統合による「新しい医道の樹立を!」」という命題を私は捨て切れずにいる。この命題を私が捨てた時、この論文のみならず私も終わる。
長い沈黙を経て、「自然道」と仏教の「生老病死が空である」という「空の哲理」(注1)の二つの哲理に根ざす「医の道」が開かれた。前者の根幹は「大自然の無償の恵みの気づき」に、後者は「万物(人間)の相互依存の関係による存在論と認識論の徹底探究」にある。この二つによる哲学・宗教・科学の超克と対話は可能であり、「人類の宝」である。
本稿は論文であり、ことばによる表現になるが、(1) 我々には“ことば”の虚しさと共に、「事の葉」と「事の端」の奥義が伝わっている(注2)。(2) “事”は無常である故にダイナミックである事(注3)。(3) “ことば”は“事”の本質自体ではなく“事”を指し示す「案内人」であり、人を導く事。(4) 「出会いの間」に人が住まう最中、天空から降り注がれる稲妻によって与えられる“ことば”もあり、その人を大きく変革する事も伝わっている(注4)。以上の「ことばの四つの武器」による「東洋的愛知学(哲学)」たる「自然道」と「空の哲理」の解明の「道」がある(注5)。この論文が、こうした手法によって、「新しい病理観とその医」の道筋を究め、「新しい医道の樹立」の礎にならん事を願うものである。
<注>
(1)私達の生存に欠かせない空気・水・衣食住、そして、社会・経済・文化活動等の源の全てが、大自然から絶対無条件・無報酬で与えられてあった!手足と口が動き不自由なく生活出来ている、「出で来てある事」に驚き畏れ喜ぶ、天地に通ずる「自然の道」があった!この道の絶対・無報酬の恩恵が、仏教や儒教や道教、近代憲法と資本主義や共産主義にも抜けがちであった。我々は一体、何の権利を持って飯を食らい、万物の一方的利用が出来ているのであろうか?
(2)ことばの限界として「不立文字」の教えがあり、『古今和歌集』(913年)冒頭に、「やまと歌は人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける」とあり、同書の「序 紀 淑望」に「和歌は、その根を心の地につけ、その花を詞の林にひらくものである」とある。「事の端」は、絵画や音楽、彫刻や陶器、建築、墓、史跡等にも多数見られる。「本質再現」という点で、古代ギリシャの美学“mimesis”(ミーメーシス;本質の模倣・再現;アリストテレスの『詩学』)に通じるものがある。
(3)従来、仏教では“無常”を否定的・悲観的に捉えがちであったが、無常なる故に万事が生起し生命が生まれる事の「ダイナミックな自然」を想起したい。
(4)ことばを単に「伝達の道具」と捉えるのが前者で、この傾向が益々強まっているが、「全人的・宇宙的出会いによることばの授与とその探究」がないと、我々の存在の奥底と神秘は開かれない。我々の生活・仕事・学び等に於いては、この2種のことばが混じり合っていて様々な“心の綾”が示されている。M,ブーバーの言う、「我と汝」と「我とそれ」の双方の「我」が発することばが複雑に織り成されている。
(5)「愛知学」とは、“哲学”の原語;philosophia(G) のphilo (愛する)‐sophia(知恵)に由来する造語。“哲学”は、philosophiaが西 周(にしあまね)によって“希哲学”と翻訳されたものが“哲学”に変化したものであるが、堅苦しく敬遠されがちである。ここでは単純に、ギリシャ語本来の語義に即した“愛知学”によって本題に迫りたい。それも、“東洋的愛知学”に期待するものである。