―東西両医の哲学・宗教・科学の超克(ちょうこく)による「医の革命」の試み―2024早春

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(これは、5年越しの400字原稿用紙1,000枚を超えた論文の概要である。上記のブログは、appeal用にA4版にまとめたもので、ここで少し深めたい)。

本稿は、特に病理観を重視。 東西両医の原点である古代中国の『黄帝内径素問霊枢』(おうていないけいそもんれいすう)と古代ギリシャの『ヒポクラテス全集』を基盤にして、インドのブェーダ哲学、仏教経典、聖書、コーラン、古事記、日本書紀に見られる病理観を探求。続いて、世界の代表的医師、宗教家、哲学者、文学者に見られる病理観を探求。

その結果、仏教の「生老病死が空(くう)である」における「病が空である」に到達。40年前の当院の開業当初の原点と同じ結論にたどり着いた。(以下、「空」と「無」を同じ意味にします)。

あらゆる全ての病気が、本質的・根源的に無(な)いのです。無いからこそ有るのです。

本来、私達の存在は「無(む)」です。この無は、死んでいなくなるという観点での無ではない。「目の前にいたあなた」が移動して、「あなたがいなくなる」という観点での無でもない。あなたが、私も、現に存在して「有る」そのままに「無い」のです。

実在としては、つまり、単独に独立した個体としては「無い」のです。もし、私が、あなたも、実在として、単独に独立した個体として存在しているものならば、空気も水も食べ物も衣類も家もいりませんネ? 私達は空気やら水やらの大自然の無数の事物の「縁起(えんぎ:相互依存の関係)」によって活(い)かされて生きている。私達の「有としての存在」は、実は無(縁起)と共にある「存在」です。「有即無、無即有」です。細菌やらウイルスも同じ。病気も然りです。

薬や鍼灸や電気療法によって私達が癒されるという事も私達の存在が無(縁起)であるからこそ有効なのです。「無の次元での関係による変化」があるからこそ有効なのです。もし、この事を否定したらあらゆる医療が成り立ちません。教育も農業も経済も、あらゆる文化が成り立ちません。

従って、細菌やらウイルスやらを「単独に有るもの」として捉えてこれらをやっつけようとする医療は間違いです。あらゆる病気も同じです。細菌やらウイルスやら病気やらを「無に帰して、戻して」捉えるべきです。

近代科学の礎(いしづえ)を築いたとされる哲学に           「我思う、故に我有り」(デカルト:仏17C)があるが、この「我」が大問題。「無」に即した「我」でなく「有のままの我」であった事に問題があり、とてつもない利用と利便の現代物質文明と大きな歪みをもたらしたのである。

万事をトコトン疑ってみたところ、たった1つ、疑いきれない事を発見。それは、疑っている自分が存在して有る事であった。

無を介していない、無に関連していない「有のままの我」が相手する万物、万事も又、無に関係しない「有の他者」となります。近代哲学・科学の土台である「対象化のすさまじい文化」ができました。

近代科学は、vorstellen、相手の事物をvor(に)-stellen(立てる)に始まります。「対象化する」の独語。万物を自己の前に立てて、実験・観察をします。(M.ハイデガー)。

この手法には3点の大きな問題を含んでいます。       1、ある特定の目的を持つ人が設定する実験・観察には避けがたい意図・恣意(しい)が入る。事物の「あるがまま」の姿でなくなる。Let it be ではない。       2、医療でいうと、痛みや不快感といった主観的な苦痛を対象化できない。対象化して、形や数字として捉える事ができる病状だけの医療になる。対象化できない病状は全てカットされる。     3、実験・観察する人のあらゆるカテゴリー(善悪、美徳といった価値判断)をカットすべき。でないと、客観的真理を導き出せない。科学自体は中性であり、利用は技術者(工学)の分野の仕事であるとする。         これはもっともらしいが悪魔の手に落ちそうな大問題を含んでいる。先ず、実験・観察する人の人間の問題が置き去りにされる。人間の訓練や成長ができない。科学知をいくらかき集めても、人間性の向上にはつながらない。更に大きな問題は、実験・観察する科学者の背後に、あるいは根底に、悪魔的魂胆が潜む場合の恐ろしさがある。

こうして、現代のたいそう厄介なニヒリズム(虚無主義)の問題が生まれたのです。生きる事の目的・意味を失い、右往左往する人々が増えています。

こうしたテーマは果てしなく続くのでこれぐらいにしたい。

「病気は無い」についてもうひとこと。ある患者さんから「生長の家の教えに同じだ」という指摘がありましたが、内容と質が全く異なる事を表明したい。「生長の家」の「病気無し」は、理想化した偶像化した健康に対する不健康な病気とする捉え方でのもの。「自然の動物には病気無し。医学や衛星学等の人間の余計な努力が病気をつくっているのだ」といった言説から想定されるように、「健康対病気」と捉えています。「有対無」です。本稿では「有即無、無即有」です。

病理観を世界史的に探究する試みは、本稿が初めてです。又、「生老病死が空である」の仏教の中核の教えは有名だが、これを医療と医学の具体的実践の場での哲理を打ち出す試みも、不思議や不思議、釈迦牟尼仏陀誕生来の2500年間、ありませんでした。

仏教者や仏教学者の病気に対する論稿が非常に少なく、見つかっても、「病気にかかってもじたばたするな。収まる所に収まるのものだ」。「病気なぞにかまけておらずに修業せよ」といった調子の言説だけ・・勿体ない限りです。  これには、仏教経典の読経や仏像信仰、薬師如来信仰等に見られた呪術信仰への依存が深く影響したかもしれない。

『日本書紀』に見られる天皇の病気克服の場面でも、医師の姿が見られず、神社仏閣への厚い寄進や仏像建立、著名な僧侶による大々的な読経の繰り返しである。病気治癒の記述は少ない。

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「医の道」を歩んで40年。約7万人近い患者さんと出会い、遂に「究極の医の道」が開かれた。「これは「医の革命」である」。

1、一切の検査機器不要   私達の存在は、大宇宙の無限の結晶であり宝である。あらゆる異常が表現されてある。病人の顔の表情、まなざし、声、動作、自覚症状、問診を通して「異常」を的確に「読み取り」、よりよく「応答」すれば病気は治るものである。私達の五感の働きの持つその総合力は、レントゲン、CT、MRI、PET等の人がつくった検査機器を遥かに超えているものがある。

究極の診察に「触診」がある。私達の指先の感覚には「神業」を思わせるものがある。縫い物、編み物、手料理、ソロバン、スマホやパソコン操作。様々な製造業に見られる手指の動き。さりげなく書いている文字の数々、絵画や書道のタッチ。野球のピッチャーの投球や卓球の打ち合い。ピアノやバイオリン等の微妙なタッチ・・これらの手指の動きと感覚には、驚きとおそれをも感じるものがある。

幸いなるかな。万病が、私達の皮膚と筋肉の異常に示されてある。万病の異常の蓄積が、皮膚と筋肉に診られます。よって、「触診による異常の読み取り」によって、万病の診察が出来るのである。癌は異常な塊なので非常につかみ易い。この塊が柔らかく成り、なくなれば完治である。「形にならない血液やリンパの頑固は?」・・これらも実は内蔵に異常があり、変な物がへばりついているのです。これらをなくせばOK。 天に栄光あれ!

2、一切の薬物が不要     本来の私達には、人がつくった薬に頼らなくても生きていける力を保有。私は50年間、内科の薬をのんでいません。ワクチンも一切受けていません。元気ハツラツです。野生動物は薬をのんでいませんネ?

但し、人類は有史以来、身の回りの薬草等によって守られてきた歴史があり、その恩恵には感謝すべきものがある。しかしながら、薬草等の国柄や天候による違い、薬草の採取や識別の困さ、薬草の保存の困難さ、土鍋で煎じる際の水の選別、手に入りにくいものや外国ものは高価になる等々の問題がある。本来、「薬」という語源が草冠に「楽」であるように、薬は根治でなく「楽にさせる」のが目的であり、限界もあるという側面がある。これは、鉱物薬品や現代の化学薬品にも言える事で、こんにちの生涯にわたって飲み続けなければならないという高血圧症、糖尿病、通風等の薬物療法に示されていよう。継続薬物療法が必要という事は治っていないという事であり、一般にみられる服薬の増加は、病気の増加を意味する。

薬効は、病人の心身の病気が鍵穴で、それに適合する鍵が薬であるとする原理によって成り立つ。しかし、時間によって病人の心身は変化、鍵穴が変化するもので鍵である薬も変えねばならなくなる。コロナ肺炎ウイルスの激しい変化に伴う新たなコロナワクチン接種が奨励された例がこれである。

又、薬物療法には、調合ミスの危険性も否定できない。毒殺に利用された歴史的事実もある。

厄介なのは、薬物療法中心の医療と巨大な製薬会社の巧みな宣伝にあやつられる人が後を絶たず、その都度その危険性を指摘する専門家も現れる。しかし、薬物の危険性の指摘にとどまり、薬物療法に代わる確かな治療を明示できずに、中途半端なままに終っている専門家が多い。なので、不安にかられてついつい薬物療法に頼るという現実がある。

更に厄介なのは、我々人間の強欲である。何でも取り込む事によって生命力を高めようとする強欲には頑固なものがある。これを見越して、暴利を貪ろうとする株式市場があり、国家よりも資金力を持つ巨大製薬会社も出現している。

但し又、日常の食べ物によって病気を癒(いや)そうとする「医食同源」は注目したい。こんにちの日本の「特定栄養機能食品」は、この流れをくむものである。

いずれにせよ、「ワクチンを含む一切の薬物不要の医療」に勝る医療はないであろう。当院では、風邪、インフルエンザ及びコロナも、通常、1.2回治療によって治癒している。

3、病名不要        生命の異常を正常にするのが医学の本命。この次元に立つと、一切の病名が不要になる。      

人の名前は便宜上の仮のもので、人の本体ではない。あなたの名前は、あなたの人間自体でなく、あなたの生命自体でもありませんネ?人名は、社会生活を営む際の便宜上のものである。物の名前も同じで便宜上の仮のもの。眼の前のみかんやりんごもあくまで名前であって、みかん自体でもなくりんご自体でもない。他の物と区分けする為の固有名詞です。

病名も同じで、病名は病気そのものではなく、「ある時、ある場」での便宜上の仮のもの。私達の生命は無常であり、絶えず変化するもの。病名も変化させねばならなくなる。コロナ肺炎ウイルスもよい例です。

近・現代西洋科学医は、「病気の名前付け」にやっきになっているが、「間抜け(間の抜け)」と「間違い(間の違い)」を犯しやすい危険性がある。病気が生まれるその根っこには、それなりの原因と結果があるのだが、これを無視した病気の現象の結果の対処だけに終始する危険性である。

もっともしかし、人名や固有名がないと私達の思考と対話が成り立たず、虚無主義に陥る。なので、絶対不可欠なもので必要なものである。病名があると病気に対する思考と対話、対策もしやすくなる。病名は無視出来ない。しかし、病名付にとらわれ、その分析に終始する医学と医療は、病気の根源的改善にはならずに幼稚なままである。

本稿の論文にはことばの問題にも踏み込んでいる。『老子』、『臨済録』を足場にしながら。ことばを否定しながらも積極的に肯定して後世に伝えようとした沢山の先駆者の遺作によってこんにちの私達も導かれてある事は、重大事である。

ことばの限界と否定をくぐり抜けた後のことばには、存在の究極に迫る深みがある。イエスや仏陀が然(しか)り。臨済、親鸞、道元も然りである。文字を持たなかったアイヌ民族やアメリカンインディアンの文化が滅亡に向かっている事実にも注意したいものである。

4、科目別診療不要     私達の心身は一つである。一体化されてある私達の心身をバラバラにすると、私達の生命は抜けてしまう。内科、皮膚科、眼科といえども、内蔵が内蔵だけで、皮膚が皮膚だけで、目が目だけで出来ているでしょうか? 脳外科も同じで、頭がだけ出来ているでしょうか?

病気を部分的、断片的に捉える事には間抜けと間違いがみられる。「私達の生命と実存のゆくえ」にも大きな問題を投げかけている。この超克・克服のヒントに、鈴木大拙(禅者)の「無分別智」がある。

通常私達は1人を1人ととらえて、1人、2人、3人と数えて当然と思って何の疑問も持たない。しかし、私達は毎日、18Lもの空気を吸い、2Lもの水を飲み、沢山の食べ物(生命)を食べて、無数の物を材料にして衣と住を成している。しかも私達は、60兆個もの細胞を持ち、60兆個もの腸内細菌を持つという。

元素の次元でみると、100もの元素が私達の身体に入り込んでいる。いや、100もの元素によって私達の身体が成り立っている。その元素の各々の数、計り知れず。更に微細な素粒子の次元での数は、「無数」として表現せざるをえない。

そして更に、所定の位置に目と耳が2つ、鼻と口が1つずつついている・・・となると、私達の一人の存在を1とする概念が怪しくなる。

一人は、何故に一人なのか? 1は何故に1なのでしょうか?ここまで考えると混乱してわけが分からなくなる。虚無主義に陥りそうである。

ここでしかし、突破と超越の道がある。「一即多、多即一」の教えがある。一は多数であり、多数が一であるという。私達一人の存在は多数の物によって成り立っているので、1とは言い切れないものがある。しかし、形としては1であり、とりあえず1としないと話が進まない。

1は1で正しく、「1+1=2」も正しい。しかし、真理の全てではない。私達の家族も、夫婦の「1+1」が、子供ができて3や4になる。死によっても変わる。1個のウイルスが、わずか1日で何万個にも増殖するウイルスがいるという。ウイルスは極小ではかない存在なだけに、その繁殖力に凄さがあるという。「1+1=2」は、仮定の仮説であって、絶対的な固定した真理ではないのです‥

「1+1=2」の真理だけに囚われると私達の思考と意識ががんじがらめに成り、硬く成り行き詰まる。現代の科学時代の行き詰まりの根本相である。

「一即多、多即一」の教えは禅に由来する。「一が無数で無数が一」にも成り得る。又、「瞬間が永遠に、同時に永遠が瞬間に」も成り得る。ピアノや太鼓の一打が永遠に通じ、その永遠が一打に通じる。

診察や治療の際の指先の一押しのその場に永遠が切り込んでくる。80歳を超えた方の当初の肘の痛みが数分間の手当によって消える。或いは、変な物がいっぱいへばりついている支離滅裂なお腹が、同じく数分間の手当によって健康な赤ちゃんのようなソフトで生命力あふれるお腹に変化する様を目の当たりにするのは、無上の喜びである。量子力学の「不確定性原理」にも通じるものがあり、こうしたテーマの探求と探究も永遠に通じる。

5、一切の治療機器不要   一切の治療機器を使わずに、「手当や各種手技療法」によって施術する治療法がある。正に、「究極の療法」である。しかし、施術後の特に翌朝に施術者である私の心身がズッシリ重くなる、激しい頭痛や背痛が起こるといった危険性があるので、現実には医療機器を用いている。病人の凄まじい energy を私がかぶる危険性を避ける為である。

ここには書ききれないが、「手当と各種手技療法」には、奇跡的な凄まじいドラマがたくさんある。しかし、命がけの怖い療法で、この手当と手技療法に徹しようとすると、1日に午前中1人、午後1人の2人の施術が限界で、現実的にはムリがある。

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上記の5つの、通常は信じられない条件の下、末期の病状を除く新患の万病が、10回内治療によって、99%が治癒・改善する奇跡の医療である。厳密には、約90%が治癒、数%が改善である。又、本当は奇跡ではなく、自然で当然の医療である。

しかも、当初の10回内治療によって完治した方(旧患者)のその後の高血圧症、痛風、腰痛、頭痛、様々な潰瘍といった万病が、1〜2回治療によって完治するのが当院では常識になっている。(こじれた病状は除く)。

色々な病気にかかって治っても、生きているかぎり、様々な病気にかかるものである。猛暑や極寒の中で、ムリはよくないと分かっていても、ムリをせねばならない時があるのが人の世の常。それもしかし、1〜2回治療によって完治するとなると人生が愉快になろう。

このHPには100余りの病状の治癒回数を、10年を経た本稿の論文には170余の病状の治癒回数を( )に明記。90数%の病状が数回(2〜9回)治療によって治癒である。この表明にウソはない。このウソはすぐにバレよう。磐梯山麓での40年の営業は不可能であろう。東京や他県から当院に来院される方もいまい。(但し、真剣に努力しない方、正しい指示に従わない方は論外)。

健康保険を適用せずに、初診料なしの治療代が毎回5,000円なので、10回内治療で5万円内。車検の半値以下。従って、世間に噂される金銭的詐欺がまいの医療ではない。詐欺になりようがありませんね?!(R.6年4月1日より6000円に改定)。

現代病院医療での医療費と比べるとタダみたいな金額である。こんにち、病院に入院して点滴を受けて寝ているだけで、実際の経費は、100万円〜200万円が常態化している。「高額療養費制度」によって、「8万円+アルファ(粉ミルク、紙おむつ等)」の支払いで済んでいるので、実際の経費を知らない人が殆ど。

退院の際の説明も、入院医療費の全体的説明がないので当然ではある。国民が全体的見方を失って、自分の財布内の狭い見方しかできなくなる恐れがあり、問題です。

このサイトに対して、中には「誇大広告・宣伝」を疑う人もいようが、そういう人は、実際に当院での治療を受けていただきたい。皆さんにとって、本稿の真偽の確かめにはこれしかありません。

医療の「科学的客観的検証・立証」といえども、「痛みやしびれ、耳鳴り、だるさ、不定愁訴」等の私達の最も身近な病症の「科学的客観的検証・立証」は困難。映像や数値といった形のデータとして出せません。ここにも、近・現代西洋医療の致命的な欠陥と限界があります。

本稿の真偽の確認は、このウエブサイト全体や論文をよく読み込みながら、実際に体験していただくほかはありません。毎回の治療ごとに万病が改善、心身全体が爽やか・スッキリが実現されています。

休みは、週1日、火曜日のみ。土、日、祝日も営業しています。お勤めの方、遠方の方の便宜をはかってです。

真の医療は、病気にかかった事を嘆き悲しむものではない。喜ぶべきである。私達は、病気にかかる事が出来て病人に成る事が出来る事は、驚きであり、凄い出来事なのである。大いに感謝すべきです。私達の一人ひとりが、大宇宙138億年の類い稀(たぐいまれ)なる一大結晶であり、宝なのである。大宇宙の縁起のダイナミズムの結晶であり宝なのです。但し、ここでストップ、終りではいけません。ただちに病苦の克服に向かいます。言いっ放し、やりっ放しが近年とみに目立つが、無責任でおもしろくない。「豊かな物語」になりません。愉快な世の中にもなりません。

私達は病人に成る事が出来る。故に健康者に成る事が出来るのであります・・・・・

アメリカの大谷選手の活躍が今年も間もなく見られそうで楽しみです。イヤなニュースが多い中での彼の活躍は希望であり有り難い。彼の突出した人格と能力を認めますがしかし、Just a moment !        皆さんお一人おひとりが凄い 事に気づき驚き確認しましょう。目が見えて、色んな物音が聞こえて、手足が動いて、車の運転も出来る。目的の場所に行ける。何と凄い事でしょう!具合いが悪ければ悪いと感じる。これも凄い事。よい努力をして具合いをよくすればよいのです。

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この論文を読みたい方には無償でお分けします。但し、全宇宙と全人類的次元に住まい、「人生の真理の探究」に命がけでぶつかろうとする、一途(いちず)な方に限ります。

具体的には、このウエブサイトのトップの「方針・理念」をクリック⇒「根源的関係の病理観と空の医療」を10回ほど読み込んで徹底理解・納得できた方で、ウエブサイト全体のキチンとした批評文を提出出来る方に限ります。現代西洋医療に最も欠けている「病気の根源的・哲学的探究による根源的克服」を目指しています。

小生、現在、75歳。医療を通して「人生の真理の探究」に命を張る、それも愉快に・・そうした方との出会いを夢見ています。医療の資格の有無、老若男女(ろうにゃくなんにょ)を問いません。

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当院の治療は、鍼、灸、吸い玉、手当、カイロプラクティック(頚椎、腰椎の矯正)、及び食事、日常生活での指導。お灸を高く評価しています。ギリシャのヒポクラテスは、吸い玉療法と共に患部を火で焼く「焼灼療法」を最高の療法と位置づけていました。これはしかし、かなり乱暴でお灸の方が安全かつ有効です。

電気療法も重視。超音波、超短波、低周波、高周波、高電圧、低電圧、レーザーの各種電気療法の中で、特に超音波治療器と低周波治療器を多用。

私どもは、上記の様々な療法を皆さんの病状に合わせて併用しています。毎回、5〜20もの病気に一遍に向き合う真剣勝負なので、多種の治療の併用は特に有効です。